雑記

ルネサンス期イタリアの哲学者 ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola. 1463―1494 )北イタリアの都市ミランドラ出身で、1463年2月24日にミランドラとコンコルディアの領主であったジャンフランチェスコ1世の三男として生れる。母親ジュリアの望みで、1477年に聖職者の道を歩む為にボローニャ大学に入学。教会法を学んだが、関心は人文学研究や哲学に向かった。1478年8月13日に母親が没した事を契機に、その翌年にフェッラーラ大学に登録して修辞学などの人文学とアリストテレス哲学を学び、また自ら詩作を行う。1479年か ら1480年までの短期間であるがロレンツォ・デ・メディチが実質的に支配したフィレンツェに滞在する。当時のフィレンツェは、マルシリオ・フィチーノが率いる「プラトン・アカデミー」を中心に、プラトン主義が興隆していた。フィチーノは、既にヘルメス選集とプラトンの前著作の翻訳を成し遂げており、自らの哲学を展開した大著「プラトン神学―魂の不滅について」を完成させていた。フィチーノに加えて、プラトン・アカデミーに集うアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)、クリストフォロ・ランディーノ(1424-1492)、ジロラモ・ベニヴィエーニ(1453-1542)といった人文主義者と知合を得る。1480年の秋から1482年の夏まで、後に単一知性論を主張した著作を刊行して司教に撤回を迫られたニコレット・ ヴェルニア(1420-1499)が教鞭をとっていたパドヴァで引き続き哲学、特にアヴェロエス主義的なアリストテレス哲学を学ぶ。その他には、トマス・アクイナスやドゥンス・スコトゥスの流れを汲む講義に出席しており、その後 一時ミランドラに滞在、直ぐにミラノ近郊のパヴィアに向かって、翌年までジョルジュ・メルラ(1431-1494) の修辞学やオッカム派の論理学を学ぶ。1482年11月25日にフィチーノの「プラトン神学」が刊行されると、フィチーノに著作を求める旨の書簡を送っている。その書簡の中で、プラトン主義とアリストテレス主義を統合する為に両哲学を深く知ろうとしていると述べていた。1484年の春に、北イタリアの諸都市での学問的遍歴を終えてフィレンツェに住居を定めて本格的な哲学研究に着手。次第にプラトン哲学に傾倒して行ったが、今まで学んできたアリストテレス哲学を捨ててしまったわけではなく、目的とするところは、1484年12月6日付のヴェネツィア人文主義者エルモラオ・バルバロ(1453-1493)宛ての書簡でも見て取れるように、両者の哲学を統合する事であった。書簡では「最近、私はアリストテレスからアカデメイア派へと転じましたが、脱走兵としてではなく偵察兵としてです。」と記している。また彼は、当時の大部分の人文主義者のようにスコラ哲学を軽蔑する事は無く、1485年7月には自ら進んでスコラ哲学の牙城ともされたパリ大学 ・神学部を訪れて、ドゥンス・スコトゥス派やオッカム派の講義や討論に出席。また同地で、ロベール・ガガン(1433-1501)のような人文主義者とも交流した。彼がフィレンツェに戻ったのは1486年であったが、ローマで大規模な哲学的・神学的討論会を開く為に5月にローマに向けて出発した。ところが、旅の途中のアレッツォで、同地の収税吏の妻マルゲリータ・デ・マッロット・デ・メディチを馬に乗せて連れ去ると言うスキャンダルを引き起こし、計画は遅延を余儀なくされた。ロレンツォ・デ・メディチの仲介によって大事には至らなかったが、深い悔恨の情を抱きながら中部イタリアの都市ペルージャに隠棲する。その後は、ペストを逃れて近隣の都市フラッタに移り、その間にローマの討論会の為の900の提題を収集して纏める。この提題には、それまでの研究成果が集約されており、彼の理想である「哲学的平和」が展開されている。そして、この討論会の開会の辞となるべき演説も作成されたが、これが後に「人間の尊厳について」と呼ばれる著作になる。またペルージャとフラッタに滞在する間に、友人ジロラモ・ベニヴィエーニの「愛の歌」についての注解を執筆していた。11月中頃にローマへと赴き、提題を12月7日に出版して、ただちにイタリアの関係諸機関へ送付。討論会は1487年の公現祭(1月6日)以降に開催されると定められていたが、ローマでは提題に対する疑念の声が高まり、教皇インノケンティウス8世によって2月20日付の勅書で正式に提題を検討する委員会を招集。委員会の結論は、論題を厳しく断罪して叱責するものであった。彼は、この結論を受け入れる代わりに弁明を持って答えたが(5月31日にナポリで秘密裏に出版)、結果として教皇は8月4日付の勅書で提題を一括して断罪して、討論会が開催される希望は完全に潰える。彼は自身の危険を感じた為か、密かにフランスに逃れるが、1488年の1月にはグルノーブル近郊で拘束。パリに連行されてヴァンセンヌ城に幽閉される。しかしロレンツォやパリの友人達の尽力とフランス王シャルル8世の行為によって直ぐに開放され、以後短い生涯を終えるまで、ロレンツォの庇護の下においてフィレンツェで哲学と神学の研究に専念する事となる。この時期での研究成果としては、聖書「創世記」の冒頭に記されている創造の6日間についての哲学的注解である「ヘプタプルス」や、プラトンアリストテレスの調和が説かれ、神に関する興味深い思索が見られる「存在者と一者について」がある。また、聖書「詩篇」への幾つかの注釈と、大部の著作「予言占星術駁論」が遺稿として残された。1439年6月18日、教皇アレクサンデル6世によって、教会からその罪を免ぜられるが、翌年のシャルル8世の軍がフィレンツェに入った11月17日に、晩年、心酔したフェッラーラ出身のドミニコ会士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)の前で息を引き取り、31歳の生涯を閉じる。フィレンツェのサン・マルコ修道院に埋葬される。

・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは「人間の尊厳について」において、人間は諸々の被造物の仲介者であり、上位のものと交わるものであり、下位のものの王であるとか、人間は感覚の鋭敏さ、理性の探求力、英知の光によって自然を解釈するものであるとか、世界の紐帯であるとか、こうした論拠は重要なものではあっても第一義的なものではなく、それは人間が万物の系列の中で獲得した、獣だけではなく星辰や超世界的精神(天使)にさえも羨望される地位を十分に説明するものでは無いとして、宇宙における人間の地位とその本性をめぐって、中世以来の伝統的な議論、とりわけフィチーノの教説に異議を唱えた。フィチーノ宇宙論は、中世の哲学的伝統を背景に、プロティノスから直接的な影響を受けて形成されたもので、宇宙は神から物体まで連続する、諸存在のヒエラルキア(階層構造)として理解されている。フィチーノは、主著「プラトン神学」(第3巻1-2章)において、存在の諸段階を、神・天使的精神・魂・質・物体の5つに定めて、これら5つの段階は、分離され孤立した存在の重なりとしてではなく、間断の無い一系列を形成するものとして結合されているとされた。特徴的な点は、諸存在の連続性と、その中における魂の中間的地位であり、宇宙が統一体となる為には中間の段階の存在は必須で、特に5つの段階の真の中間としての魂が担っている役割は重要である。魂は上位の諸存在(神・天使的精神)へと上昇し、また下位の諸存在(質・物体)へと下降する事によって、宇宙内の被造物全てを「一」へと結合する。魂は「第3の本質」あるいは「中間の本質」と呼ばれ、万物を結合し宇宙を統一体とする任務が付与されてる。魂は、あらゆるものを真に結合するものであり、あるものへと移るときも他のものを放棄せず、個別的なものへ移っても常に全体を保有するので、それは正当にも自然の中心、あらゆるものの中間物、世界の連結、万物の面、世界の結び目と紐帯と呼ぶ事が出来るだろうとする、一系列を形成する存在のヒエラルキアにおける魂の「結び目と紐帯」としての、中間者的・媒介者的地位と見做されている。人間の本性に関しては、人間をミクロコスモスと考える古代・中世の伝統を受け継いで、魂以外のものは全て「単一的」であるが、魂は同時に「全て」であり、魂は神的な似像と下位の諸事物の概念と範型を所有し、全ての事物の能力を自己の内に含んでいるとした。ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは、人間以外の被造物は「限定された本性」を持ち、神によって予め定められた法の内に制限されており、人間には如何なる束縛もなく、自己の「自由意志」に従って自己の本性を決定するものと見做した。言い換えれば、人間の本性は「不定なるもの」なのであって、それゆえに人間は望むものを持ち、欲するものになる事が出来るものとした。 ” 神はこの世界を造った後に人間を創造しようとしたが、新しい息子に贈るべきものは何も残っていなかった。それゆえ神は、人間に何一つ「固有なもの」を与えられなかったが、その代わりに他の被造物が持つ性質を全て付与し、世界の中央に置いたのである。そして、この様にして創造された最初の人間、すなわちアダムに神は次の様に話しかけた。アダムよ、お前に定まった席も、固有な相貌も、特有な贈り物も与えなかったが、それは、如何なる席、如何なる相貌、如何なる贈り物を、おまえ自身が望んだとしても、お前の望み通りに、お前の考えに従って、お前が其れを手に入れ所有する為である。” 人間のミクロコスモス的な本性を基盤としつつも、宇宙のヒエラルキアにおける「中間物」としての特権的な地位を付与するのではなく、ヒエラルキア内に固定されず、自己の地位を自由に選択する存在と見做して、その様々な可能性の中で自由意志に基づいて自己の本性を実現するとして、伝統的な人間観からの離脱を試みをたのである。

・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラが企てた討論会は「哲学的平和(諸学派の協和)」を立証する為のものであった。論議の対象とした諸学派については、提題から知られる。この900の論題集は、大別した2つの部分からなっており、前半の402の論題は諸学派から取り出されたものであり、後半の498の論題は自身の見解に基づいたものである。提題の前半部は、さらに「ラテンの哲学者たちと神学者たちの教説に基づいた論題」「アラビア人の教説に基づいた論題」「逍遥学派を公言しているギリシア人に基づいた論題」「プラトン主義者と呼ばれる哲学者たちの教説に基づいた論題」「カルデア人の見解に基づいた論題」「エジプト人メルクリウス・トリスメギストスの古代の教説に基づいた論題」「ヘブライの知恵あるカバラ主義者の秘儀的教説に基づいたカバラ的論題」の7つのグループから構成される。提題の後半部は、自身の哲学的見解を示すもので、そこに彼の思想的な独自性が強く表現されている。「人間の尊厳について」における説明によるなら、第一に、これまで多くの人々によって信じられてきたが、誰によっても十分に立証されていない「プラトンアリストテレスの協和」が論じられる。次には、ドゥンス・スコトゥスとトマス・アクイナスの所説、およびアヴェロエス(イブン・ルシュド)とアヴィセンナ(イブン・シーナー)の所説の協和が説かれる。そして、アリストテレス及びプラトンの哲学に関して、新しく考案された論題が、また自然学及び形而上学についての新しい72の論題が提示される。数を介して哲学する新しい企てが語られ、更には、現世的な利益・効能を得る事を目的とした通俗的なものでは無く、学知としての魔術の諸定理や、ヘブライ人の古代の神秘であるカバラオルフェウスゾロアスターの詩句に関する論題が取り上げられた。尚、彼は「予言占星術駁論」を執筆して魔術との関わり深い占星術を真っ向から批判を行っており、著作において、私が占星術と述べる時には、星辰の大きさや運動を数学的に測定するという、正確で高尚な学芸を意味しているのではない。むしろ、未来の出来事を星辰によって読み解く事を意味しているのであり、それは欲く深い嘘つきの成すペテンであり、市民法と教会法によって禁じられている。確かに、この術は、人間の好奇心によって保存されてはいるが、哲学者たちは嘲笑しており、商人によって求められてはいるが、善良で思慮深い人々は怪しんだのであると述べた。そして、星辰の地上に対する影響として物理的な力の影響しか認めず、占星術が損なうであろう人間の自由意志の擁護を行ったとみられる。

ヴォルテールの態度についてタレンタイアによる要約について「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」エルベシウスに対するヴォルテールの態度についてタレンタイアによる要約。確かに意見は異なっても相手の主張する権利を守る事は大切である。だが相手の存在そのモノを否定する事は意見とは呼べない。対話は一人で成り立つ事は無い。互いが対話する事を同意して、初めて対話として成り立つものである。言葉であっても同じである。言葉を聞く者・読む者が在って、初めて言葉として成り立つものである。絵であっても同じである。絵を見る者が在って、初めて絵として成り立つ。誰もいない処では意味さえ生まれてこない。如何なる相手であったとしても同じである。人ならざるものであったとしても同じである。

・「自由」という言葉には、本来的な自由を示す(Freedom)と制限からの解放を示唆するの自由(Liberty)の2通りの解釈が可能であるにもかかわらず、日本語では「自由」の一言で済まされている。ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca)の言葉とされるものを幾つか引用しつつ、改めて「自由」について想いを馳せてみたい。

・「精神的活動なき余暇(閑暇)は一種の死であり、生きながら埋葬されるのと同じ事である。」自己決定の選択が出来ない事、自己決定感の欠如は、人を無気力へと追い遣り、そして習慣化させて生きる屍として過ごさせて、後に死に追い遣る事もある。「自己決定感の欠如」つまりは「自己の力では如何様にしようもない状況」から自由では無いと覚える絶望という心理状態に陥ると、周囲の環境が変化したとしても、なかなか気がつかずにあり、その無力感に囚われて、救われる機会を自ら逃す事さえもある。人が「自己決定権」つまりは「自己決定が出来る」という認識を持っているか否かでは大きな差を生む。

・「隷属状態が、人の存在全体に及ぶと考えるのは誤りである。」人の大切な部分に、隷属は及ばない。確かに肉体は主人に隷属し、捕らえられているかもしれないが、精神は独立している。実際、精神はきわめて自由で奔放な為、肉体を閉じこめている監獄でさえ、それを抑え込む事は出来ない。如何に悲劇的環境(隷属状態)に身を置いても、自らの人生を生き抜く事は出来る。日常において、「自己の人生を生きる」という選択肢は、誰も奪う事が出来ないし、奪おうと試みるべきでも無いが、如何に「自由」を奪われていたとしても、人は「自己の生を生き抜く事」は可能であって、その「苦しみ」という感覚でさえも「生きる」という事の一部となりうる。

・「運命は我々から富を奪う事は出来ても、「勇気」を奪う事は出来ない。」「生きる事の最大の障害は「希望」を持つという事であるが、それは明日に依存して今日を失うという事である。」「人間にとって真の最大の敵は、「自己の胸中」に居る。」 ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca.)は、ユリウス・クラウディウス朝(紀元前27年 – 紀元後の西暦68年)のローマ帝国の政治家にして哲学者であり詩人でもある。父の大セネカと区別するため小セネカとも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えて権勢を誇り、富をも得たが、皇帝ネロ暗殺計画に関わった嫌疑を受けて命を絶った。(紀元前1年頃-西暦65年4月)

 

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