雑記

・民族的出自として用いられる「カルデア人」という名称は、ローマ期においては民族的出自とは無関係に占星術に携わった者を示す際に用いられていた。そして紀元前5世紀のヘロドトスの時代からエジプトは神錆びた知識の貯蔵庫と考えられていた為、占星術に携わった者達はエジプトを自らの淵源であると主張する事が多く、古代ギリシア人達は長き間、自らの文明は比較的に若いと考えていた為、大変な年代を閲するとされる占星術を発見して、発展したのは自らの文明よりも古い文明だと考えざろう得なかった。しかし、実際に古代エジプトが寄与したのは標準的な暦と、デカンの最初に限られたものであった。占星術は、人間が天体に対する或る程度の知識が得られた段階で成立したものであり、確かに科学的な天文学の刺激になった事実を否定はしないが、天文学の基盤になったとする主張については否定されよう。占星術と密接な関係にあったのが錬金術であるが、英語のAlchemyや近代的な形であるChemistryアラビア語から直接由来する。Alchemyの元となるアラビア語のal-kimia(アラビア語のalは定冠詞)の由来は、ギリシア語で金属の溶解・鋳造を意味するchymaに由来する説が的を得ているだろう。一説ではエジプト説があるが、エジプトを示すとされているkmt或はchemと、錬金術を結び付ける諸文献は見当たらない。又、中世初期にラテン語に翻訳されて多く知られた錬金術において著名なエメラルド板についても、アラビア語版の要約は新ピタゴラス主義者であったテュアナのアポロニウスの著書に見出だせるものであり、加えて、アラビアの説明では、エメラルド板とノアの方舟の関わりが言及されていたが、エジプトではノアの方舟に関して知られてはいなかった。

・古代メソポタミアにおいて、月の相が7日毎に変化する事から特別な数と見做したらしく、これが後に引き継がれたとされている。一週間を7日とする習慣は、古代メソポタミアにおける七支配惑星(※古代メソポタミアにおける月の相の変化から特別な数(7)と見做された事が由来で、その「数」に太陽系の恒星と惑星が割り当てられたのが「七支配惑星」)に由来するとされ、七支配惑星とは地球から遠い順[当時の考え方として]に土星木星・火星・太陽・金星・水星・月の事を示す。プトレマイオス以後は、日時を支配する惑星を示す支配惑星表が流布して、曜日の呼び名の順序も決定された。この支配惑星表に基づき、土曜日・日曜日・月曜日・火曜日・水曜日・木曜日・金曜日という7区分が生じる事になる。又、プトレマイオスの頃には7月から8月頃に巨蟹宮に月、獅子宮に太陽が当てられ、12月から2月頃に宝瓶宮と磨羯宮に最も遠い土星が当てられ、巨蟹宮獅子宮から宝瓶宮・磨羯宮に向けて([当時の考え方として]温かい星から寒い星に向けて)水星・金星・火星の順を一対ずつ振り分けられたとされている。現在の一週間の考え方は、ユダヤ教キリスト教の影響下にあり、旧約聖書・創世記において説かれる「神による6日間の世界創造と第7日目の安息日」がそれであり、ローマ皇帝コンスタンティヌスが321年に日曜日を「イエス・キリストの日」と定めた事から日曜日を休息日とする習慣が生まれた。キリストの処刑日が金曜日であり3日目に復活したと信じられており、ローマ式の数え方では当日も勘定に入れて数えられた事から3日目に該当する日曜日が当てられた。

クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)は、「テトラビブロス」において、この様に述べていた。「多の人が労力を浪費し、説得力のある説明が一つもされない「この戯言」に関しては因果関係の無い自然現象と考えた方がいいだろう。合理的な説明の無い籤や数字ではなく、星とその周辺の場所に関する様々な側面を科学的に探求して得られる予測しか認められるべきではない。」そして、こうも述べていた。「それは哲学でも同じ事」「哲学者の振りをするゴロツキがいるからといって、哲学そのものを破壊する必要は無い。」なかなか手厳しく述べている。

・アッシュールのイシュタル神殿では、十六弁の紋様を用いたものが出土物が多数確認されている。イシュタル神の象徴とみられ、この十六弁の紋様はロゼッタ紋と呼ばれており、薔薇をモチーフにしたものとみられている。イシュタル神の象徴とみられる薔薇をモチーフにしたとされてる十六弁の紋様のロゼッタは、メソポタミアの影響圏では多数みられる様であり、エジプトでは蓮の紋様として捉えた様であり、日本では菊の紋様として用いられている。メソポタミアロゼッタ紋の他には、マルタ十字にも類似するカッシート十字があり、これは太陽神の象徴だったともみられており、後に太陽円盤、更には有翼円盤に置き換わる。日本の歴史に纏わる俗説で、明治期に貿易商として来日したニコラス・マクラウドが発端の日本・ユダヤ同祖論なるものがある。これに類似した俗説として、江戸期に来日したエンゲルベルト・ケンペルが発端の日本・シュメール起源説があり、この俗説は、特に第2次世界大戦中に横行したそうである。日本・シュメール起源説なる俗説については続きがある。この俗説が横行した為に、中原与茂九郎・京都大学名誉教授によって、日本ではアッカド語の原音に近い表記である「シュメル」を用いる事なく、「シュメール」の表記を用いる様になったそうである。知られている様でいて、あまり知られていないが、古代オリエント史が専門の故・三笠宮崇仁親王殿下は、こうした俗説が横行と、中原与茂九郎・京都大学名誉教授による対応といった事情を踏まえて、研究に関する著述上においては、学術的な正確を期する為に、敢えてアッカド語の原音に近い表記を採用したそうである。

・樹木は古くから、所謂「聖樹」として看做される事があり、古代オリエントなどでは、棗椰子は枯渇する事の無い生命の力を象徴する図像の主題とされた。生命・豊穣への想いは、限りある儚き命への想いであり、掛け替えの無い恵みへの想いでもある。

・古代メソポタミアのイシュタル。フェニキア名はアシュタルテ(Ashtarte)シュメール名はイナンナ(Inanna)若しくはニン・アンナは、愛と豊穣、また戦闘と金星を司る女神。天の女主人の名を持ち、バビロニア神話の「イシュタルの冥界下り」では地母神的に表されたり、ギルガメシュ叙事詩では愛と豊穣や戦闘の女神として表されたりもした。

・古代メソポタミアの神話についてだが、最古の主神はアンであったが、都市ウルクの政治的覇権が弱まり、エンリルに移行。アッカドの時期も言及す程の変動はみられず、政治的覇権がアモリ(シュメル語でマルトゥ「西方」)に移行するのに伴い都市バビロンの守護神マルドゥクに移行したとみられてる。最古のシュメルの神々の王アン(an)は、楔型文字の表記では「天・神」を意味する。他の神々の場合は、限定詞を付けるが、アンの場合は付かない。天空神とされるアンは、都市ウルクの守護神でもあるけども、娘の神であるイナンナが代わる事になる。※補足 : 限定詞(漢字表記の偏に相当)についてだが、 神を意味する限定詞は、ディンギル(dingir)。ディンギルは、アン(若しくは、アヌ(Anu))の場合は同一文字の為、例外的に限定詞は付かない。
・古代メソポタミアの言語についてだが、バビロニア期にはシュメル人は既に政治的主権を失い、アッカド語が日用語になっていた様であり、シュメル語による伝承記録を残す試みがみられ、エンリルと関わりある都市ニップルにある図書館の遺跡では、粘土板文書が多く出土。セム語族セムの由来は、旧約聖書・創世記のノアの子に由来する便宜的な名称で、東方セム語はアッカド語(バビロニア語・アッシリア語)、西方セム語は、北西セム語(カナン語・アモリ語・アラム語)と南西セム語(アラビア語・南アラビア語)に分類されている。

・大気の神エンリル。都市ニップルの守護神エンリル(enlil)は、シュメル語で「主人・風)の意味。力(権威若しくは破壊的な力)を象徴して「荒れ狂う嵐」「野生の雄牛」と呼ばれる。天空神アンとは異なり、エンリルは執行者的な色彩を持っている。天と地から誕生したのが風(大気)の神エンリルとされており、天地を分けたとされ、天を運び去ったのが天空神アンで、エンリル自身は、地(キ)を運び去ったとされる。シュメル・アッカドの時期を通じて主神であった事から、大きな民族的な対立は無かった模様。

・都市バビロンの守護神マルドゥクアッカド語Marduk)のシュメル語名は、アマルウトゥ(amar-UD)「太陽の若き雄牛」。アッカド語で、単にベル「主人」とも呼ばれる。政治的覇権がアモリ(シュメル語でマルトゥ「西方」)に移行するのに伴い主神となった。マルドゥクは、時期は不明であるがエリドゥ付近の都市クアルに神殿を持ち、古いシュメル系の神アサルルヒと習合されていたとみられる。父神エアと共に悪魔払い儀礼の守護神とされてアサルルヒの名で呼ばれていた様だが、本来は、農耕神であったとみられる。

・古代メソポタミアの神々に対する祈りの言葉には、非常に高位にある、近づき難い存在への遠心的な感情は多く見られるが、神に対して人々が心をときめかせて、情熱に任せて焦がれる様な感情を抱くものは見出す事は出来ない。崇敬・感嘆・平伏の念が多くを占める。他方、特別な位置付けとして捉えられていた「個人の神」(逐語的には「ある人の頭上の神」)に対する人々の姿勢は、先に述べた古代メソポタミアの神々とは異なってくる。個人神の場合は名前が無いのが普通であり、礼拝者からは「我が神」や「我が女神」と呼ばれた様である。加えて、庇護者の運命に責任を負うとされた個人神は、先に述べた高位の神々との間の仲介者を受け持つ存在とされていた。古代メソポタミアの神々に対する当時の人々の感情について考察する際には、後の世代の宗教的な感覚は遠ざけておく方が望ましい。見誤る要因となる。

・古代メソポタミアの「神」を意味する限定詞(漢字の偏に相当)はシュメル語でディンギル(dingir)、アッカド語でイル(ilu)であるが、表記で用いられた文字は「星」を表したものであり、天・とりわけ上方・一際高い・抽んでて優越しているものを指して用いられる。古代メソポタミアの神々に対する人々の捉え方は、非常に高位にある、近づき難い存在である遠心的な感情が占めたものであった事は、人間に対する優越性が強く意識された「神」を意味する限定詞(漢字の偏に相当)の文字からも見出だせるだろう。
・古代メソポタミアの場合は、天体の中でも「月」に上位を与えていた。黄金は、太陽やエンリル(Enlill)と関連付けられ、銀は、月やアヌ(Anu)と関連付けられていた様である。一方、古代ギリシアの場合は、周知の様に「太陽」に、上位を与えてた。天体に対する見解に差異がある。

・豊穣女神 イナンナ (アッカド語で「イシュタル」)天の女主人(ニン・アンナ)※ニンは「女主人」の意味。マッサト(「王女様」の意味)、テリトゥ(「並外れた強さ」の意味)等の多くの称号を持つ。随獣に獅子を従える姿は、先史時代(サマッラ期)の「豹」を従えた豊穣女神に先例が見出されてる。バビロニア期には、暁の明星・宵の明星(金星)の女神とされるが、暁の明星・宵の明星の同一性が確認されたのは古バビロニア期(バビロン第1王朝時代)の事である。戦いを司る女神とされたのも同様に古バビロニア期頃よりとみられている。アヌニトゥム(イシュタル・アヌニトゥム「女戦士イシュタル」女神の軍事能力面を強調した称号)は、アッカドの女神名であり、古バビロニア期の叙事詩では戦争女神で表現されていた。

・シュメル神話において、イナンナ女神と関係した「聖婚儀礼」に纏わる神話があり、
神話の内容では、農耕神エンキムドゥに心を寄せていたイナンナ女神に対して、兄弟とされる太陽神ウ卜ゥが牧畜神ドゥムジとの婚姻を勧めて、結果的に牧畜神ドゥムジと婚姻を結ぶ内容の展開である。神話に基づき、毎年挙行されたシュメルの「聖婚儀礼」では、牧畜神ドゥムジの代理として王が務めて、イナンナ女神の代理として女性祭司が務めて婚姻を結ぶ儀礼形式をとっていた。尚、この場合における王とは、政治的な統率者である王(ルガル)の事でなく、宗教的な統率者である王(エン)の事である。イナンナ女神に関する神話では、牧畜神ドゥムジ(タンムズ)を探求して冥界に降りて蘇る「イナンナの冥界下り」があるが、季節的事情と水を用いた灌漑との関係や、再生による持続的な豊穣が読み取れる。この神話のモチーフは、他の多くの神話でも繰り返されており、例としては、ギリシア神話におけるデメテルに関する神話やアフロディテに関する神話、エジプト神話におけるホルスを探し求めたイシスに関する神話、カナアン神話における女神アナトに関する神話がある。補足として、カナアンのウガリット文書におけるアッタル神は、死んだ神の身代わりを十分に果たす事が出来ず、広大な冥界全域の領主になる為に地下に降りるが、アッタルの名前は、灌漑を意味するアラビア語の動詞アタラ(athara)と関係があるとみられている。「イナンナの冥界下り」では、イナンナの従者ニンシュブルが、主人の救済の為に神々に援助を求めて水の神エンキ(エア)が救いの手を差し伸べるが、水の神エンキ(エア)に関する神話(エンキとニン・フサルグ)においては、大地の女神と水の神エンキ(エア)との婚姻から植物が生まれたとしてる。尚、大地の女神ニン・フサルグ(「山の貴婦人」の意味)の意味は、メソポタミアの低地の湿地帯や、氾濫した水上にシルトを積み上げる事に由来するものとみられている。神話では、その間に必然的関係を見出す事は困難ではあるが、大地の女神ニン・フサルグは幾つかの名前で現れている様で、神話の展開では、既に万物が生成された後の時期における大地と水の結合による生成の神話であろうとみられてる。

 ・古代ギリシャの哲学で用いられた、’元のもの’「アルケ(archē)」を’無限なるもの’「アベイロン(to apeiron)」としたのは、ギリシアの哲学者タレスの後輩にあたるアナクシマンドロスであるとされ、アベイロンを哲学用語に用いられた最初の人とされている。アナクシマンドロスは、万物がそこから生成して、又、そこへと消滅するもとのものをアルケと呼び、生成消滅が限りなく繰返され万物のうちに存する様々の対立的性格 (冷と温、乾と湿) が生じる為には、アルケは必然的に質量的規定を受けぬもの、つまりは、アペイロンでなくてはならないと論じた。アナクシマンドロスの弟子であったアナクシメネスは、それを一歩踏み込みアルケは空気であるとして、あらゆるモノの性質的相違が稀薄と濃縮との過程を通して量的な差別化に帰着されると共に、アルケは単に生成の上で原理たるに留まらずとも、構成の上で元になるものとした。アリストテレスによって哲学の創設者と呼ばれたタレスはアルケを水に求めたとされるが、タレス自身は如何なる著作も残さなかった為に、思想の詳細を知る事は同時期の証言を手掛かりにするしか出来ずにある。ヘラクレイトスは不断の変化の象徴とした意味において火に求めたが、対立するものが統一的な結合をするロゴスを見据えていた。エンペドクレスは、水・空気・火に土を加えて四元素説を最初に唱えたとされ、これらは生成せずに常に継続し、結合(愛)と分離(争い)すると論じるも、構成要素として充実体と空虚を主張したデモクリトスと共に形相や本質には僅かにしか触れていない。クセノパネス(土に関して)の扱いについては諸説あって、ここで加えるには問題がある。そしてアリストテレスは、第一質料(prima materia)と乾・湿・熱・冷の性質の組み合わせで論じたが、これが後世にまで影響を与える事となる。

 ・「知識の秘鑰を約束された者たちへの啓示である至高なる万能の神の栄光を讃えつつ、ここに古の賢者たちが公にした書物をもたぬラテン人識者たちに その教説を説くこととしよう。ヒスパニアおよびアンダルシアの尊い王であるアルフォンソ殿は、精魂こめて入念に この書をアラビア語からヒスパニア語に訳すように命じたまうた。その書名がピカトリクスである。」賢王(el-Sabio)とも呼ばれたカスティリアとレオンの王・AlfonsoⅩ(1221-1284)の命によりアラビア語から翻訳されたピカトリクス(Picatrix)は、ラテン語訳版の原本であるスペイン語訳版の年代と考えられている「主の1256年、アレクサンドロスより1567年、カエサルより1295年、アラビア暦655年」に完成したとの記述されている。(Perfectus est anno 1256 Domini nostri, Caesaris 1295, Alexandri 1568, Arabum 655.) 世界最古にして古代世界最大の規模を誇ったプトレマイオス朝の大図書館である古代アレキサンドリア図書館は、学府ムセイオンの設立の際に付属の研究施設として設けられ、セラピス神の神殿には本館を凌ぐ規模の分館が設けられていたとされる。当時、広域の文献を収集する事を目的として建設された古代アレキサンドリア図書館は最古の学術の殿堂とも言われており、へレニズム文化の成果を集大成して諸学の発展に大きく寄与した。組織的に写本を作成して多くの著作・学術書を所蔵したとされるが、所蔵文献は巻子本であったとみられる。蔵書数は膨大で数十万巻も所蔵していたとされるが、その正確な数については諸説あって定かではない。度重かの痛手を受けて大図書館は終焉を迎えてしまうが、その点についても諸説あって、その詳細は不明瞭なままにある。

 

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