雑記

・日本の陰陽道は、古代律令国家の神祇卜部と並ぶ占術機関である陰陽寮の陰陽科が、大陸(中国)の学問である子部五行類に属する占術や祈祷や祭祀等の呪術である陰陽を選択的に受容して、9世紀頃までには成立し、その後も展開を遂げたものである。

儒教的理念では、災害・怪異は為政者の不徳・失政による戒めとして受け止められていた為、政治責任として問われる事となり、前漢末期には政争に利用され、多数の宰相が罷免されたりもしたし、その後も重大な政治責任として扱われた。祈祷や祭祀等は、儒家思想における為政者の政治責任論の回避する理論としての位置付けがあった事について留意すべきである。漢書「芸文志」では「陰陽家者流 蓋出於羲和之官 敬順昊天 歷象日月星辰 敬授民時 此其所長也。及拘者為之 則牽於禁忌 泥於小數 舍人事而任鬼神」とあり、「拘者これを為すに及んで、即ち禁忌に牽かれ、少数に泥み、人事を捨てて鬼神に任す」(大局を知らない小人がこれに拘ると、禁忌に流され、些細な事を気にして、人事を捨てて鬼神に任せてしまう)と窘めている。日本の吉備真備も「私教類聚」において、顔之推の「顔氏家訓」で述べられた「世に伝えて云う。陰陽を解する者は鬼の嫉むところ」という記述を引用して、自身の子孫に教訓をしている。その有用性を認めて、大要は知っておくべきだが、専業にはすべきでは無いと述べている。用い方を誤るならば危険を招きかねない事は充分に承知していた事が伺える。

 ・「陰陽説」と「五行説」は、共に紀元前403年から紀元前221年頃の中国の戦国時代に成立したと見られ、前漢の時代には両説が結合して「陰陽五行説」が成立したと見られており、前漢末期の劉歆による「七略」を基にした、後漢の班固によって編纂された図書目録である漢書「芸文志」では、典籍を六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略に分類されたが、陰陽五行説に関する記述では「拘者これを為すに及んで、即ち禁忌に牽かれ、少数に泥み、人事を捨てて鬼神に任す」(大局を知らない小人がこれに拘ると、禁忌に流され、些細な事を気にして、人事を捨てて鬼神に任せてしまう)と窘めている。各項目においては当時の基幹的な思想として陰陽五行説が様々な学術と不可分な関係にあった事が見出だされている。

 ・隋の蕭吉による「五行大義」は、佚存叢書(中国では亡失して日本に伝存していた漢籍)である。「古の人君は安けれども危きを忘れず、以って不虞を戒む。故に曰く、天下安きと雖も、戦を忘るる者は危く、国邑強きと雖も、戦を好めば必ず亡ぶ。」(五行大義) 「古之人君 安不忘危 以戒不虞。故曰 天下雖安 忘戰者危 國邑雖強 好戰必亡。」※古き世の指導者は、安らかな時にあっても危険を忘れずに不慮の災いの襲来に注意を払った。世が平安であっても戦災を忘れる者は危うく、国が強大であっても戦いを好む様であるなら自ずと身を亡ぼすと言われている。「古之人君 安不忘危 以戒不虞。故曰 天下雖安 忘戰者危 國邑雖強 好戰必亡。」五行大義の第二・辨體性で論じられてる五行の「金」に関する一文。五行の「金」は、季節ではいえば秋に該当する。秋の言葉には「天高く馬肥ゆる」という言葉があるが、本来は「秋高く馬肥ゆ」であり、辺境からの襲来の時期になったから、防戦の準備を怠ってはいけないという警句として用いられた。(出典・漢書「趙充国伝」杜審言「贈蘇味道」)

 ・武経七書孫子には「天の災いには非ずして、将の過ちなり。」(「非天之災 將之過也」)との一文がある。責任者の統率や指揮采配に絡む敗因は、天が人を罰しようとした降した災いでは無く、ひたすら責任者が犯した過失にほかならないと、これを断じている。「天の我を亡ぼすにして、戦いの罪には非ず」と称した「史記項羽本記における項羽の振る舞いは、その典型と挙げられる。自らの負い目を、何らかの巡り合わせに帰そうと転嫁させてしまう事は、組織においても個人においても陥り易いものである。武経七書の「李衛公問対」においては「愛設於先 威設於後 不可反也。若威加於前 愛救於後 無益於事矣。」とあるが、これは組織の采配について述べたものである。「愛は先に設け、威は後に設く、これ反するべからず。若し、威を前に加えて、後に愛で救っても事に益無し。」(先に恩愛を施し、後から威刑を示すという原則を崩してしまってはいけない。もし、先に威刑を加えて、後から恩愛を施すならば、その人心を掌握する事は出来ない。)書経において「威厳が愛情に勝れば事は成し遂げられ、愛情が威厳に勝れば成功は覚束ない」としているが、これは物事の結果について戒めたものであって、先後の関係について語ったものでは無いと論じられている。

プロイセンモルトケ(Helmut Karl Bernhard Graf von Moltke)は、読書家としても知られている。ゼークトが著書で述べてるが、モルトケは自身の職務に極めて勤勉であったが、その読書は些かの偏狭さも無く、自身の職務に関係する軍事専門書に拘る事もなかった。モルトケは、軍指揮官に可能な限り自主的活動の余地を残す事を信条としていたが、大きく委任するも、放任する事は無く行動したとされる。軍組織は、その性質上から求められるのは「自制心」であり、戦略は、有利な戦略環境を求めるべきものであって、戦闘を求めるものでは無い。モルトケは前線の下士官には勇猛果敢さを鼓舞する士気を求めても、上級の指揮官には冷静さを求めたとされている。「大戦略(Grand strategy)」の目標とは「戦争要因の排除」(或いは「緩和」)である。それゆえに「戦略(Strategy)」の目標は「有利な戦略環境」を求めるべきものであって、戦闘を求めるものでは無い。

 ・中国で儒教仏教道教の三教の間で争われた教義あるいは儀礼に関する論争が行われた。三教間の論争の過程は、文字通りの互いを非難しあう論争が主役であったわけではない。中国において官学とされた儒教道教との間で相互に受容し合うが、道教仏教との間においても相互に受容し合う事となり、仏教儒教道教と相互に受容していく事で、中国仏教へと変貌する事になる。日本文化にも影響を与えた儒教道教仏教の教理・儀礼は、中国において融合折衷の展開の動きがあった事を踏まえなければ、影響を受けた日本での有り様を観ていく際に困難となるだろう。

 ・道教「茅山派」 上清派と称される事もある旧道教の1派。茅山の名は、句曲山(茅山)で得道した漢代の3兄弟・三茅君に由来するもので、宗師の系譜の流れは東晋の楊羲・許穆(諱)らが得た託宣を梁の陶弘景が編纂・付注した経典「真誥」まで遡る。陶弘景の後の系譜は、隋の王遠知から唐の潘師正、司馬承禎、李含光へと継承される。盛唐から中唐の時期の李含光は中興の祖とされた。事跡・著作を収録したものとして「茅山志」がある。経典「真誥」の影響は、日本においても天武天皇(諡・天渟中原瀛真人)や皇后の持統天皇の事例でも見出せる。天武天皇の諱である天渟中原瀛真人は、道教思想にある蓬莱三山の瀛洲に関連した名称であり、持統天皇天武天皇を偲んだ万葉集の歌(巻2-162)からも推測される。経典「真誥」においては「死後に南の朱華宮で修行した後に東海に遊ぶ」とあるが、天武天皇が埋葬された先は、持統天皇と共に関わった藤原京の真南にある。又、皇后の持統天皇崩御(大宝2年)の際では、大祓は中止されたが道教思想が色濃い東西の文部の解除は通常通リ行われていた。東文部は、天智天皇の晩年に天武天皇大津京から吉野入りした際に従っており、天武天皇と生前から関わりを持っていた。

 ・「黄帝内経」素問 霊蘭秘典論篇・第八では、中国における古典医学の解説として内臓器官について、当時の国家体制の仕組みに例えて噛み砕いて論じており、「身体であれ国事であれ、それぞれの道理の深奥は、まことに微妙で測り難く、また表にあらわれる変化の諸相は無限で尽きる事がありません。どうしたら、その本源を突きとめる事ができましょうか。まことに困難というほかありません。多少の心得のある者が、ああでもないこうでもないといろいろ思いをめぐらしたところで要諦を知る事には程遠いでありましょう。それを探し求めて思い悩んでも、どれが最善かわかりはしますまい」と述べている。日本の陰陽道の占書「占事略决」において病気に関する占断があるが、当時の病気に対する認識は、魑魅魍魎等の干渉によるものと考えられていた時代背景から、当時の医療従事者による治療行為を担保する為に用いられたとみられるが、占断に基づく直接的な医療行為に及んだとする記録は確認されていない。「凡人之所汲汲者 勢利嗜欲也。苟我身之不全 雖高官重權 金玉成山 妍艷萬計 非我有也。」(抱朴子・勤求篇)凡そ人の汲汲たる所のものは、勢利嗜欲なり。苟しくも我が身の全からざれば、高官重權、金玉山を成し、妍艷 萬もて計ふと雖も、我が有に非ざるなり。(凡そ、人々が日夜あくせくと求めているものは権勢・利欲である。しかし如何に高位高官に上がって権力をふるい、金玉の山を成して、側に仕える美人は万を以って数える程にあっても、己の身が健全でなかったら、なんの足しにもならない。) 

 ・日本の儒教経典の伝来は、大陸の隋・唐との直接交渉の後に招来された。それ以前にも朝鮮半島、特に百済を通じて若干の典籍の招来が見られるが、推古天皇の御世の遣隋使派遣を契機に、百済を経由する事なく、直接的に隋・唐の文物制度が導入された事は、日本の学術文化にとって大きく寄与するものであった。日本に亀卜・筮占が招来する以前には、太占が用いられるていたが、亀トは太占を補うものとして用いられ、大宝令に基づくならば神祇官に属する卜部の執業とされ、易占(筮占)や式占は中務省に属する陰陽寮の職掌とされた。占法の優先順位は、神祇官の亀ト(官ト)と陰陽寮の易占や式占(寮占)において、判定が異なる場合は官トに従うのが常であった。寮占の1つであった易占(筮占)についてだが、陰陽寮の専管として当時の貴族に公開される事は無く、又、易占(筮占)の占法過程が非効率であった点から次第に衰えて、式占が主となった。陰陽寮における易占(筮占)の扱いは、巷で考えられてるほど重視はされていない。

 ・葛洪(道教・霊宝派)の「抱朴子」内篇・塞難篇には、「抱朴子曰 命之脩短 實由所値 受氣結胎 各有星宿。天道無為 任物自然 無親無疏 無彼無此也。」とある。「抱朴子曰く、命の脩短は實に値ふ所に由る。氣を受け胎を結ぶは、各々星宿に有り。」(「抱朴子曰 命之脩短 實由所値 受氣結胎 各有星宿」) 万物が運行する摂理の中で星々の出会いによって人の運命が定まるものと、ここでは占星術の論理が述べられるが、人の運命が神の支配によるものでは無いとする意味になる。雜應篇では「抱朴子曰く、仰いで天文を觀、俯して地理を察し、風氣を占ひ、籌算を布き、三棋を推し、九宮を歩し、八卦を檢し、飛伏の集まる所を考へ、訞訛を物類に診し、休咎を龜筴に占ふは、皆 下術常伎にして、疲勞して恃み難し。」(「抱朴子曰 仰觀天文 俯察地理 占風氣 布籌算 推三棋 步九宮 檢八卦 考飛伏之所集 診訞訛於物類 占休咎於龜筴 皆下術常伎 疲勞而難恃」)と排撃している。「天道は無為、物に任じて自然にして、親なく疏なく、彼なく此れなし。」(「天道無為 任物自然 無親無疏 無彼無此也」) 道は、全くの無人格的な実在であり、万物の運行は、道に基づき行われる。道は無心にして無為であり、無為的な在り方を自然という。この天道は、一方に親しく、他方に疎である事は無い。彼に篤く、此れに薄いという事も無い。ここで述べられる「天道無為」とは、老子の思想に基づくものであり、「道は自然に法る」(道徳経・第25章)「道は常に無為にして為さざる無し」(道徳経・第37章)とあり、「天の道は親なく、常に善人に与す」(道徳経・第79章)という用い方をしている。

 ・抱朴子の外篇においては、儒家的な視点で政治・社会、文化の問題について論じられ、内篇においては、合理主義と神秘主義が共存して論じられている。儒教的理念では、災害・怪異は為政者の不徳・失政による戒めとして受け止められていた為、政治責任として問われ、祈祷や祭祀等は、儒家思想における為政者の政治責任論の回避する理論としての位置付けがある。この点を踏まえると、外篇と内篇の開きに違和感は覚えない。内篇の中でも、例えば祈祷に関する記述では、一方において主体性の無い神頼みを批判するも、他方で、これとは逆行するかの様に論じられているが、陰陽に対する班固による漢書「芸文志」等の見解を踏まえるならば、統一感が見出だせる。

 ・抱朴子・雜應篇に太上老君(老子)についての描写の記述があり、趣がある。「老君眞形者 思之 姓李名聃 字伯陽。身長九尺 黃色 鳥喙隆鼻 秀眉長五寸 耳長七寸 額有三理 上下徹足有八卦。以神龜為床 金樓玉堂 白銀為階 五色云為衣。重疊之冠 鋒鋋之劍 從黃童百二十人 左有十二青龍 右有二十六白虎 前有二十四朱雀 後有七十二玄武。前道十二窮奇 後從三十六辟邪。雷電在上 晃晃昱昱。此事出於仙經中也。」(老君の眞形なるものは、これを思ふには、姓は李、名は聃、字は伯陽。身の長は九尺、黃色にして鳥喙隆鼻、秀でたる眉長さ五寸、耳の長さ七寸、額に三理あり、上下足に徹するまで八卦あり。神龜を以って床となし、金樓玉堂にして、白銀の階となし、五色の雲を衣となす。重疊の冠、鋒鋋の劍、黃童百二十人を従へ、左に十二の青龍あり、右に二十六の白虎あり、前に二十四の朱雀あり、後に七十二の玄武あり。前道は十二の窮奇、後從は三十六の辟邪。雷電は上に在りて、晃晃昱昱たり。この事は仙經の中に出づ。) 青龍、白虎、朱雀、玄武は多く知られるところだが、文にある「窮奇」については、方相氏に関して知られる後漢書「禮儀志」の追儺儀礼(大儺)で唱えられる文言でも記述がある。「辟邪」については漢書霊帝記」の注に、古人は多くの辟邪の形を刻んで飾りとなすとある。「甲作食𣧑 胇胃食虎 雄伯食魅 騰簡食不祥 攬諸食咎 伯奇食夢 強梁祖明共食磔死寄生 委隨食觀 錯斷食巨 窮奇騰根共食蠱。凡使十二神追悪凶 赫女(汝)驅 拉女(汝)幹 節解女(汝)肉 抽女(汝)肺腸 女(汝)不急去 後者爲糧!」(後漢書「禮儀志」)(「甲作は凶を食え! 胇胃は虎を食え! 雄伯は魅を食え!騰簡は不祥を食え! 攬諸は咎を食え! 伯奇は夢を食え!強梁と祖明は共に磔死と寄生を食え!委隨は観を食え!錯斷は巨を食え! 窮奇と騰根は共に蠱を食え!」凡そ十二神を使いて悪凶を追わん! 汝の躯を赫し、汝の幹節を拉かん!汝の肉を解き、汝の肺腸を抽かん!汝急ぎて去らざれば、後者 糧と為さん!)

 ・抱朴子に記述されている六甲秘祝や禹歩は多く知られるところにある。登涉篇に「禹步而行三祝曰。諾皋大陰將軍獨聞(開)曾孫王甲勿開外人使人見甲者以為束薪不見甲者以為非人」と禹歩に関する記述がある。(禹步して行き、三たび呪して曰え「諾皋。大陰將軍よ。獨り曾孫王甲にのみ開き、外人には開くなかれ。もし人の甲を見るあらば、以て束たる薪となさん。甲を見ざる者は、以て人に非ざるとなさん。) ここで述べられている甲とは禹歩を行い唱える者の事で、登涉篇の記述では山林の中に往く際に身を護る為に用いるとしている。なかなか興味深い。

 ・墨家儒家の仁(家族愛を基本とする仁)は差別愛であると見做し、血縁によらない普遍的・無差別的博愛を論じた事で知られている。自身、或いは身内さえが良ければ、他は切り捨てる不寛容さは今の世でも多く散見できる事だが、墨家が指摘した儒家の差別愛と通ずる部分が多い。墨子の一文には「義を為すは、毀を避け誉に就くに非ず」と言う文言があり「人道に進むのは、非難を避ける為ではなく、名誉を受ける為でもなく、唯々、人間とし当たり前の事をする為である。」としている。確かに、儒家の孟軻は家という家族制社会の基礎単位から体制が崩れると危惧して、墨家を攻撃した事は有名であるが、孟軻が論じた説にも問題があり、当時としては実現が困難な論説(理想論)があった事は、既に他でも指摘されている事である。儒学を学ぶ者にとって、墨子の話は些か抵抗感を感じる方も少なからずおられるだろうが、墨子の論説は儒学に足りない部分を補うという点で善い材料となるだろう。

 

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