雑記

・「飛喜百翁が利休を招きし時、西瓜に砂糖をかけて出したれば、利休、砂糖のなき所を食ひて帰り、門人にむかい、百翁は人に饗応することをわきまへず、我等に西瓜を出せしが、砂糖をかけて出せり。西瓜は西瓜のうまみを持ちしものを、にげなきふるまひなり、とて笑ひ侍りき」(雲萍雑志)  ※飛喜百翁なるものに利休が招かれた際、西瓜に砂糖をかけて出された。利休はその砂糖のかかっていないところだけを食べて帰った。そして門人に「饗応のなんたるかを理解していない、西瓜には西瓜の美味しさがあるのに」と語ったという。

・必要以上に着飾るは不安の裏返し。己に自信があるならば、その必要は無いのだから。現状に満足する事の出来ない者の多くは現実逃避で、安心感を得ようする。自らを引き立たせようとするばかりに、他者への批判を過度に繰り返すのも同じ事。流行り廃りに過敏になり過ぎるのも同じ事である。

広告を非表示にする

雑記

・通常、「知っている事」の内容は「明確な形」が伴う。分からない事を知っているとは謂わない。では、「何かは知らないが、知らない事が在る事を知っている」場合は、どうなるだろうか? 「何かは知らないが、知らない事が在る事を知っている」としても「何かしらの形」を与える事が求められる。言葉や寓象は、誰かしらが知っていなければ、通常は音や形のままであって、その伝達の役割を果たせず、誰かしらが知っている事に託さなければ、表現の俎上に載せる事も困難である。この「誰か」が特定のものであったならば、多くにとって秘密に満ちた隠されし意味を帯びる事となる。伝えられし言葉や寓象には、表層的な意味の向こう側に隠された意味が複雑に存在する事があり、加えて、それらが単体だけに収まらず、複雑に組み合わさる事で、更なる意味が潜む事とてある。「何かは知らないが、知らない事が在る事を知っている事」とは「分からない事」では無い。だからといって、それは「知っている事」でも無いけども、そうだとしても、それは「知っている事」である。「明確な形」が伴っているのか、「何かしらの形」しか与える事が出来ずにあるのかの違いでしかない。

・何か、ある藝術作品に接した際に、作品そのままから伝わる直接的な感動とか印象等よりも、その作品に関する第2義的な、謂わば知識と称されるものの方を、より重要なものだと捉えて、枝葉的な知識とか解説無しには、本当の鑑賞はあり得ないものだと考えたり、あるいは、如何に自身が作品から直接的に強烈な印象なり感動を受けたとしても、これを決して最終的な価値判断の尺度とする事は無く、より権威があると考えられる他者の意見、謂わば定評を頼ろうとする態度を無自覚な習慣の如く続けるならば、豊かに隠された潜むものを察する事など困難である。

・かつて、数学的に証明された事は、議論の余地はなく永遠不変の真理であり、数学を基盤にし、証明を積み重ねていけば、いつかは、世界の全ての問題を解決する理論体系に到達できるのではないかと信じられていたが、クルト・ゲーデルは数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえない事を数学的に証明している。「1・ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する。」「2・ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無い事を、その理論体系の中で証明は出来ない。」完全無欠に見える数学理論の中にも「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が含まれている事を意味しており、そして、数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明する事が、そもそも不可能である事を証明したのである。論理的(数学的な)に突き詰めていけば、どんな問題についても真偽の判定が出来て、それを積み重ねていけば、いつかは真理に辿り着けるという考えは間違いであり、どんな理論体系(数学的な)にも、証明不可能な命題が必ず存在しており、その理論体系に矛盾がない事を、その理論体系の中で決して証明する事は出来ずにあり、自身で完結する理論体系は構造的にはありえない。何かしらの判別が、その理論体系内において出来ない事は少なからずあるものである。

・時折「他者から助けられて当たり前だ」との考え方を見受ける事があるが、これは実に有り得ない考え方だろう。何故なら、その行為を行うには、その者なりの理由が伴っているからである。何かしらの理由で他者から助けられた際には、この事を思い返す事を薦めたい。助け助けられる有り難さを深める為にも。

・「愛」と「憎」を他の言葉に置き換えるならば、結束と分離に言い換える事が出来るだろう。過度な結束は、個の境界を越えて侵食し合い、個と個は互いに押し潰し合い、個々の特質は消失し、最後は1つの塊(骸)と化す。それゆえに、愛が善とは限らず、憎が悪とも限らない。何事も「程々」が善い。

・模倣だけで他者に流出してしまう程度のレベルのものを「技術」と呼んでいいのだろうかと疑問に思う。模倣だけで他者に流出する事を避けたいなら、自らが保有する技術を更に昇華させて、容易に模倣出来ないレベルまで磨き上げるのが健全である。

・様々な仕様を満たす事により、1つのものとして得られるものもあり、様々な技能が集約される事で1つのものが成されるものもある。それゆえに、この技能は優れ、この技能は劣っているとは、安易には言えない。そして、1つの技能には、それを支える基礎があり、その基礎を磨く事は大切である。

・伝統とは常に新しきものを取り入れながら続くもの。古きものは誕生した時は新しい。「型破り」との言葉があるが、確かに型(基本)が無ければ破れない。だからとて、新たなもの(新たな基本となりうるもの)を生み出す為にある型に権威を与えてしまっては意味が無い。懐古主義からは何も生まれ無い。

 ・「仮説」とは建築する前に設けられて建物が出来上がると取り払われる「足場」の様なものである。「足場」は、建築の作業を行う者にとってなくてはならないものだが、「足場」は『建物』では無い。「仮説」が建築する前に設けられて建物が出来上がると取り払われる「足場」と似ているのに対して、『建物』はどうであろうか。『建物』は古くなれば、修復しなければならない事があり、増築が求められる事とてある。これは『科学』の有り様と似ている。「擬似科学」は、科学的な解明が進んでいない謂わば「足場」の状態にあるものを、まるで完成された『建物』であるかの様に装う事に問題がある。科学的解明が不十分であるものは解明の対象にされるべきだが、恰も解明されたかの様に結論づける事は、それらを放棄する事に繋がるから問題である。

広告を非表示にする

雑記

戦陣中において楽曲を七返演奏した際に、舎毛音があれば、我が陣は勝ち、敵陣を破る事が出来ると伝えられる雅楽「陪臚」は、物部守屋と戦った聖徳太子は舎毛の音があって勝利したとされ、源義家源義光は戦いの際に奏でさせて勝利を得たと伝えられる楽曲である。

 

雅楽「陪臚」と同様に戦いに関わりがある雅楽の楽曲として「蘭陵王・荒序」がある。「荒序」は、敵陣を破り戦勝を祈る際や天下静謐を祈る際にも奏でられたとされる。この楽曲は源氏物語にも登場するもので、長らく失われた楽曲であったが、近年において復刻される。

広告を非表示にする