雑記

・人の心拍は不規則で、脈と脈の間隔は常に短くなったり長くなったりを繰り返しており、この間隔の揺らぎは「HRV 心拍変動(Heart Rate Variability)」と呼ばれる。人の心拍は自律神経系の交感神経系と副交感神経系の2系の影響を受けており、交感神経系はアドレナリンの流れと関係して心臓の鼓動を活発にさせ、副交感神経系は鼓動を鎮める働きを担当する。(横隔膜を動かす腹式呼吸は多く知られるところだが、副交感神経系と関係しているとの事)自律神経系は心拍の他にも呼吸・消化・発汗・体温調整など、身体の不随意の機能をコントロールしている。人が生活している間、交感神経系と副交感神経系のバランスは常に変化しており、激しい運動をした後は体が休息を必要とするので副交感神経系が優位になり、そして身体が必要な分だけ休息すると、今度は交感神経系の働きが優位になっていき、身体は更なる運動に備えるように変化する。心拍変動では、運動後に徐々に心拍変動が下がっていき、休息が取れると徐々に心拍変動が上がっていく事になる。心拍変動が少ないという事は身体がストレスを受けているという事であり、この時期に激しいトレーニングを行うと肉体的なダメージを受けてしまう為、トレーニングにおいて、回復後の心拍変動が最も多くなった時にヘビーなトレーニングを行うのは、その為であるとの事。個人差はあるが、心拍変動が最も多く穏やかな状態である時、1分間に呼吸する回数は凡そ5~7回である事は明らかになっており、1分間に行う呼吸を5~7回の範囲に収められるとき、心拍変動の平均値は25%ほど上がるとの事。心拍変動の高低差には個人差があり、自己の回復状態のベース・ラインが何処なのかは、正確に計測しなければ決める事は難しいが、呼吸を整えて心拍変動を高める事を目的としたトレーニングでメリットが得られるの1日20分程度の練習量は必要との事。トレーニング法には、アメリカ海軍の特殊部隊で採用されている呼吸法に「Box Breathing」(別名「Tactical Breathing(戦術的呼吸)」)というものがあるが、4ステップを1セットにしたシンプルなトレーニング法(①4秒間かけて息を吸い込む。②4秒間肺の中に空気が入った状態を保持する。③4秒間かけて息を吐き出す。④4秒間肺の中に空気が無い状態を保持する。)であり、自律神経系が調整される事でストレスを和らげる効果を得る目的で用いられているとの事だが、黄金の夜明け団系の儀式魔術で用いられるリズム呼吸法(四拍呼吸)と類似している。(※念の為に注意しておきたいが、これらトレーニング法は身体が健全である者を想定している為、医師の診断を受けている者や必要のある者は対象とされていない。加えて、この記述は個人的な備忘録として記述しているので、それ以上の性格は持っていない。)

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雑記

ルネサンス期イタリアの哲学者 ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola. 1463―1494 )北イタリアの都市ミランドラ出身で、1463年2月24日にミランドラとコンコルディアの領主であったジャンフランチェスコ1世の三男として生れる。母親ジュリアの望みで、1477年に聖職者の道を歩む為にボローニャ大学に入学。教会法を学んだが、関心は人文学研究や哲学に向かった。1478年8月13日に母親が没した事を契機に、その翌年にフェッラーラ大学に登録して修辞学などの人文学とアリストテレス哲学を学び、また自ら詩作を行う。1479年か ら1480年までの短期間であるがロレンツォ・デ・メディチが実質的に支配したフィレンツェに滞在する。当時のフィレンツェは、マルシリオ・フィチーノが率いる「プラトン・アカデミー」を中心に、プラトン主義が興隆していた。フィチーノは、既にヘルメス選集とプラトンの前著作の翻訳を成し遂げており、自らの哲学を展開した大著「プラトン神学―魂の不滅について」を完成させていた。フィチーノに加えて、プラトン・アカデミーに集うアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)、クリストフォロ・ランディーノ(1424-1492)、ジロラモ・ベニヴィエーニ(1453-1542)といった人文主義者と知合を得る。1480年の秋から1482年の夏まで、後に単一知性論を主張した著作を刊行して司教に撤回を迫られたニコレット・ ヴェルニア(1420-1499)が教鞭をとっていたパドヴァで引き続き哲学、特にアヴェロエス主義的なアリストテレス哲学を学ぶ。その他には、トマス・アクイナスやドゥンス・スコトゥスの流れを汲む講義に出席しており、その後 一時ミランドラに滞在、直ぐにミラノ近郊のパヴィアに向かって、翌年までジョルジュ・メルラ(1431-1494) の修辞学やオッカム派の論理学を学ぶ。1482年11月25日にフィチーノの「プラトン神学」が刊行されると、フィチーノに著作を求める旨の書簡を送っている。その書簡の中で、プラトン主義とアリストテレス主義を統合する為に両哲学を深く知ろうとしていると述べていた。1484年の春に、北イタリアの諸都市での学問的遍歴を終えてフィレンツェに住居を定めて本格的な哲学研究に着手。次第にプラトン哲学に傾倒して行ったが、今まで学んできたアリストテレス哲学を捨ててしまったわけではなく、目的とするところは、1484年12月6日付のヴェネツィア人文主義者エルモラオ・バルバロ(1453-1493)宛ての書簡でも見て取れるように、両者の哲学を統合する事であった。書簡では「最近、私はアリストテレスからアカデメイア派へと転じましたが、脱走兵としてではなく偵察兵としてです。」と記している。また彼は、当時の大部分の人文主義者のようにスコラ哲学を軽蔑する事は無く、1485年7月には自ら進んでスコラ哲学の牙城ともされたパリ大学 ・神学部を訪れて、ドゥンス・スコトゥス派やオッカム派の講義や討論に出席。また同地で、ロベール・ガガン(1433-1501)のような人文主義者とも交流した。彼がフィレンツェに戻ったのは1486年であったが、ローマで大規模な哲学的・神学的討論会を開く為に5月にローマに向けて出発した。ところが、旅の途中のアレッツォで、同地の収税吏の妻マルゲリータ・デ・マッロット・デ・メディチを馬に乗せて連れ去ると言うスキャンダルを引き起こし、計画は遅延を余儀なくされた。ロレンツォ・デ・メディチの仲介によって大事には至らなかったが、深い悔恨の情を抱きながら中部イタリアの都市ペルージャに隠棲する。その後は、ペストを逃れて近隣の都市フラッタに移り、その間にローマの討論会の為の900の提題を収集して纏める。この提題には、それまでの研究成果が集約されており、彼の理想である「哲学的平和」が展開されている。そして、この討論会の開会の辞となるべき演説も作成されたが、これが後に「人間の尊厳について」と呼ばれる著作になる。またペルージャとフラッタに滞在する間に、友人ジロラモ・ベニヴィエーニの「愛の歌」についての注解を執筆していた。11月中頃にローマへと赴き、提題を12月7日に出版して、ただちにイタリアの関係諸機関へ送付。討論会は1487年の公現祭(1月6日)以降に開催されると定められていたが、ローマでは提題に対する疑念の声が高まり、教皇インノケンティウス8世によって2月20日付の勅書で正式に提題を検討する委員会を招集。委員会の結論は、論題を厳しく断罪して叱責するものであった。彼は、この結論を受け入れる代わりに弁明を持って答えたが(5月31日にナポリで秘密裏に出版)、結果として教皇は8月4日付の勅書で提題を一括して断罪して、討論会が開催される希望は完全に潰える。彼は自身の危険を感じた為か、密かにフランスに逃れるが、1488年の1月にはグルノーブル近郊で拘束。パリに連行されてヴァンセンヌ城に幽閉される。しかしロレンツォやパリの友人達の尽力とフランス王シャルル8世の行為によって直ぐに開放され、以後短い生涯を終えるまで、ロレンツォの庇護の下においてフィレンツェで哲学と神学の研究に専念する事となる。この時期での研究成果としては、聖書「創世記」の冒頭に記されている創造の6日間についての哲学的注解である「ヘプタプルス」や、プラトンアリストテレスの調和が説かれ、神に関する興味深い思索が見られる「存在者と一者について」がある。また、聖書「詩篇」への幾つかの注釈と、大部の著作「予言占星術駁論」が遺稿として残された。1439年6月18日、教皇アレクサンデル6世によって、教会からその罪を免ぜられるが、翌年のシャルル8世の軍がフィレンツェに入った11月17日に、晩年、心酔したフェッラーラ出身のドミニコ会士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)の前で息を引き取り、31歳の生涯を閉じる。フィレンツェのサン・マルコ修道院に埋葬される。

・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは「人間の尊厳について」において、人間は諸々の被造物の仲介者であり、上位のものと交わるものであり、下位のものの王であるとか、人間は感覚の鋭敏さ、理性の探求力、英知の光によって自然を解釈するものであるとか、世界の紐帯であるとか、こうした論拠は重要なものではあっても第一義的なものではなく、それは人間が万物の系列の中で獲得した、獣だけではなく星辰や超世界的精神(天使)にさえも羨望される地位を十分に説明するものでは無いとして、宇宙における人間の地位とその本性をめぐって、中世以来の伝統的な議論、とりわけフィチーノの教説に異議を唱えた。フィチーノ宇宙論は、中世の哲学的伝統を背景に、プロティノスから直接的な影響を受けて形成されたもので、宇宙は神から物体まで連続する、諸存在のヒエラルキア(階層構造)として理解されている。フィチーノは、主著「プラトン神学」(第3巻1-2章)において、存在の諸段階を、神・天使的精神・魂・質・物体の5つに定めて、これら5つの段階は、分離され孤立した存在の重なりとしてではなく、間断の無い一系列を形成するものとして結合されているとされた。特徴的な点は、諸存在の連続性と、その中における魂の中間的地位であり、宇宙が統一体となる為には中間の段階の存在は必須で、特に5つの段階の真の中間としての魂が担っている役割は重要である。魂は上位の諸存在(神・天使的精神)へと上昇し、また下位の諸存在(質・物体)へと下降する事によって、宇宙内の被造物全てを「一」へと結合する。魂は「第3の本質」あるいは「中間の本質」と呼ばれ、万物を結合し宇宙を統一体とする任務が付与されてる。魂は、あらゆるものを真に結合するものであり、あるものへと移るときも他のものを放棄せず、個別的なものへ移っても常に全体を保有するので、それは正当にも自然の中心、あらゆるものの中間物、世界の連結、万物の面、世界の結び目と紐帯と呼ぶ事が出来るだろうとする、一系列を形成する存在のヒエラルキアにおける魂の「結び目と紐帯」としての、中間者的・媒介者的地位と見做されている。人間の本性に関しては、人間をミクロコスモスと考える古代・中世の伝統を受け継いで、魂以外のものは全て「単一的」であるが、魂は同時に「全て」であり、魂は神的な似像と下位の諸事物の概念と範型を所有し、全ての事物の能力を自己の内に含んでいるとした。ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは、人間以外の被造物は「限定された本性」を持ち、神によって予め定められた法の内に制限されており、人間には如何なる束縛もなく、自己の「自由意志」に従って自己の本性を決定するものと見做した。言い換えれば、人間の本性は「不定なるもの」なのであって、それゆえに人間は望むものを持ち、欲するものになる事が出来るものとした。 ” 神はこの世界を造った後に人間を創造しようとしたが、新しい息子に贈るべきものは何も残っていなかった。それゆえ神は、人間に何一つ「固有なもの」を与えられなかったが、その代わりに他の被造物が持つ性質を全て付与し、世界の中央に置いたのである。そして、この様にして創造された最初の人間、すなわちアダムに神は次の様に話しかけた。アダムよ、お前に定まった席も、固有な相貌も、特有な贈り物も与えなかったが、それは、如何なる席、如何なる相貌、如何なる贈り物を、おまえ自身が望んだとしても、お前の望み通りに、お前の考えに従って、お前が其れを手に入れ所有する為である。” 人間のミクロコスモス的な本性を基盤としつつも、宇宙のヒエラルキアにおける「中間物」としての特権的な地位を付与するのではなく、ヒエラルキア内に固定されず、自己の地位を自由に選択する存在と見做して、その様々な可能性の中で自由意志に基づいて自己の本性を実現するとして、伝統的な人間観からの離脱を試みをたのである。

・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラが企てた討論会は「哲学的平和(諸学派の協和)」を立証する為のものであった。論議の対象とした諸学派については、提題から知られる。この900の論題集は、大別した2つの部分からなっており、前半の402の論題は諸学派から取り出されたものであり、後半の498の論題は自身の見解に基づいたものである。提題の前半部は、さらに「ラテンの哲学者たちと神学者たちの教説に基づいた論題」「アラビア人の教説に基づいた論題」「逍遥学派を公言しているギリシア人に基づいた論題」「プラトン主義者と呼ばれる哲学者たちの教説に基づいた論題」「カルデア人の見解に基づいた論題」「エジプト人メルクリウス・トリスメギストスの古代の教説に基づいた論題」「ヘブライの知恵あるカバラ主義者の秘儀的教説に基づいたカバラ的論題」の7つのグループから構成される。提題の後半部は、自身の哲学的見解を示すもので、そこに彼の思想的な独自性が強く表現されている。「人間の尊厳について」における説明によるなら、第一に、これまで多くの人々によって信じられてきたが、誰によっても十分に立証されていない「プラトンアリストテレスの協和」が論じられる。次には、ドゥンス・スコトゥスとトマス・アクイナスの所説、およびアヴェロエス(イブン・ルシュド)とアヴィセンナ(イブン・シーナー)の所説の協和が説かれる。そして、アリストテレス及びプラトンの哲学に関して、新しく考案された論題が、また自然学及び形而上学についての新しい72の論題が提示される。数を介して哲学する新しい企てが語られ、更には、現世的な利益・効能を得る事を目的とした通俗的なものでは無く、学知としての魔術の諸定理や、ヘブライ人の古代の神秘であるカバラオルフェウスゾロアスターの詩句に関する論題が取り上げられた。尚、彼は「予言占星術駁論」を執筆して魔術との関わり深い占星術を真っ向から批判を行っており、著作において、私が占星術と述べる時には、星辰の大きさや運動を数学的に測定するという、正確で高尚な学芸を意味しているのではない。むしろ、未来の出来事を星辰によって読み解く事を意味しているのであり、それは欲く深い嘘つきの成すペテンであり、市民法と教会法によって禁じられている。確かに、この術は、人間の好奇心によって保存されてはいるが、哲学者たちは嘲笑しており、商人によって求められてはいるが、善良で思慮深い人々は怪しんだのであると述べた。そして、星辰の地上に対する影響として物理的な力の影響しか認めず、占星術が損なうであろう人間の自由意志の擁護を行ったとみられる。

ヴォルテールの態度についてタレンタイアによる要約について「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」エルベシウスに対するヴォルテールの態度についてタレンタイアによる要約。確かに意見は異なっても相手の主張する権利を守る事は大切である。だが相手の存在そのモノを否定する事は意見とは呼べない。対話は一人で成り立つ事は無い。互いが対話する事を同意して、初めて対話として成り立つものである。言葉であっても同じである。言葉を聞く者・読む者が在って、初めて言葉として成り立つものである。絵であっても同じである。絵を見る者が在って、初めて絵として成り立つ。誰もいない処では意味さえ生まれてこない。如何なる相手であったとしても同じである。人ならざるものであったとしても同じである。

・「自由」という言葉には、本来的な自由を示す(Freedom)と制限からの解放を示唆するの自由(Liberty)の2通りの解釈が可能であるにもかかわらず、日本語では「自由」の一言で済まされている。ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca)の言葉とされるものを幾つか引用しつつ、改めて「自由」について想いを馳せてみたい。

・「精神的活動なき余暇(閑暇)は一種の死であり、生きながら埋葬されるのと同じ事である。」自己決定の選択が出来ない事、自己決定感の欠如は、人を無気力へと追い遣り、そして習慣化させて生きる屍として過ごさせて、後に死に追い遣る事もある。「自己決定感の欠如」つまりは「自己の力では如何様にしようもない状況」から自由では無いと覚える絶望という心理状態に陥ると、周囲の環境が変化したとしても、なかなか気がつかずにあり、その無力感に囚われて、救われる機会を自ら逃す事さえもある。人が「自己決定権」つまりは「自己決定が出来る」という認識を持っているか否かでは大きな差を生む。

・「隷属状態が、人の存在全体に及ぶと考えるのは誤りである。」人の大切な部分に、隷属は及ばない。確かに肉体は主人に隷属し、捕らえられているかもしれないが、精神は独立している。実際、精神はきわめて自由で奔放な為、肉体を閉じこめている監獄でさえ、それを抑え込む事は出来ない。如何に悲劇的環境(隷属状態)に身を置いても、自らの人生を生き抜く事は出来る。日常において、「自己の人生を生きる」という選択肢は、誰も奪う事が出来ないし、奪おうと試みるべきでも無いが、如何に「自由」を奪われていたとしても、人は「自己の生を生き抜く事」は可能であって、その「苦しみ」という感覚でさえも「生きる」という事の一部となりうる。

・「運命は我々から富を奪う事は出来ても、「勇気」を奪う事は出来ない。」「生きる事の最大の障害は「希望」を持つという事であるが、それは明日に依存して今日を失うという事である。」「人間にとって真の最大の敵は、「自己の胸中」に居る。」 ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca.)は、ユリウス・クラウディウス朝(紀元前27年 – 紀元後の西暦68年)のローマ帝国の政治家にして哲学者であり詩人でもある。父の大セネカと区別するため小セネカとも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えて権勢を誇り、富をも得たが、皇帝ネロ暗殺計画に関わった嫌疑を受けて命を絶った。(紀元前1年頃-西暦65年4月)

 

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雑記

・薔薇十字(Rose Cross)の最上点には「風」、最下点には「地」、左点には「火」、右点には「水」が配分されている。エリファス・レヴィの「高等魔術の教理と祭儀」(1855-1856)教理篇・第4章においても同様の配置の記述がみられる。薔薇十字儀式では、先ず東南・西南・西北・東北の各々で所作を行い円を形成させ、次に東南・中央・西北の各々で所作を行って往復し、西南・中央・東北の各々で所作を行って往復して十字を形成させ、そして西南・西北・東北・東南の各々で所作を行い再び円を形成させて、中央に戻る様式をとっている。

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新約聖書の各書の原文はギリシア語であるが、原本は現存せずにあり、伝えられた多くの写本により、知り得る事が出来るものである。主禱文に関して、ギリシア語版 マタイ伝 第6章 9節~13節の記述( 09. οὕτως οὖν προσεύχεσθε ὑμεῖς Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς· Ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου ·10. ἐλθέτω* ἡ βασιλεία σου· γενηθήτω τὸ θέλημά σου, ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς· 11. Τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον 12. καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφήκαμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν· 13. καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν, ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ. ⧼Ὅτι σοῦ ἐστιν ἡ βασιλεία καὶ ἡ δύναμις καὶ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας. Ἀμήν⧽.) 欽定訳版(ジェームズ王版) マタイ伝 第6章 9節~13節の記述( 09. After this manner therefore pray ye: Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name .10. Thy kingdom come. Thy will be done in earth, as it is in heaven. 11. Give us this day our daily bread .12. And forgive us our debts, as we forgive our debtors. 13. And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.) 1611年刊のジェームズ1世のもとで英訳された欽定訳聖書(The Authorized Version of the Bible) では、ギリシア語版(写本)の末文も反映されている。しかしながら、1545年に始まったトリエント公会議においてラテン語聖書の公式版として定められたウルガータ(Vulgata)では、末文が反映されていない。尚、ラテン語訳の聖書には、エウセビウス・ヒエロニムスによってギリシア語ヘブライ語から翻訳された古ラテン語訳と呼ばれるものとウルガータの2種類がある。

キリスト教学の最初の地は、180年頃にストア学派の哲学者でもあったとされるキリスト教学者パンタイノスやアレクサンドリアのクレメンスによる神学校が設立されたアレキサンドリア(エジプト)とされ、新約聖書をエジプト人キリスト教徒の為にコプト語に翻訳されたのも、この地とされている。クレメンスの著書には、他宗教からキリスト教に転向を求める「ギリシア人への勧め」(「勧告」と呼ばれる事もある)や、改宗者にキリスト教徒としての生き方を説く「教育者」、そして「ティトス・フラウィオス・クレメンスによる真の哲学に関する雑多な思索的(グノーシス的)覚書」(通称「ストロマンテイス」)がある。アレクサンドリアのクレメンスに先鞭をつけたのはパンタイノスであったが、後にクレメンスがパンタイノスから引き継いだ神学校は、誰にも門戸が開かれて、キリスト教への洗礼志願者および聖職者希望者に限らず、非キリスト教徒であっても学ぶ事が出来たとされている。講義においてはギリシア語で行われ、日常会話はコプト語が使用されたとみられ、講義内容は聖書だけでなく、現代で呼ぶところの科学・物理学・化学・数学・音楽・天文学・医学といった幅広い分野に渡り、非キリスト教徒はキリスト教徒の入門講座を受ける事が推薦されたものの、希望者は自由に講義を受ける事が出来たとされてる。

新約聖書 マタイ伝 第6章13節の祈禱文の末文は、歴代志・上 29章 10-11節からの出典とみられている。( BRVK AThH IHVH ALHI IShRAL ABINV MOVLM VOD OVLM / LK IHVH HGDLH VHGBVRH VHThPARTh VHNTzH VHHVD HMMLKH ※ヘブライ語表記にすべきだが、文体の事情からアルファベット表記) 「われらの父祖イスラエルの神、主よ貴方はとこわに誉むべき方」「主よ、栄えと、力と、美と、勝利と、威光は貴方のもの。王国も」

エリファス・レヴィ 「高等魔術の教理と祭儀」(1855-1856) 教理篇 第3章「ソロモンの三角形」より ※キリストは、その教義を書き記さず、彼の使徒達の中で唯一人のカバリスト、それも偉大なカバリストである愛弟子にだけ、それを密かに明かしたのである。つまり「黙示録」は「グノーシス」、つまり初期キリスト教徒の密かな教理の書であり、その教理の鍵は、ラテン語訳聖書が翻訳してないギリシア風儀式の中で司祭にしか唱える事が許されない、「主禱文」の密かな唱句に示されている。この全くカバラ的な唱句は「マタイ伝」のギリシア語原文と、そしてヘブライ語の何部かの写本に見出される。 ※カバラの教義の中では「ケテル」が、それが相当するが、ここで用いられている「マルクト」という神聖な言葉、そしてグノーシス派が「霊体アエオン」と呼んでいた天上圏の中に繰り返される「ゲブラ」と「ケセド」の平衡が、この隠秘的唱句の中でキリスト教神殿全体の要石の鍵を授けている。 ※「ゲブラ」と「ケセド」に支えられる「マルクト」は、とりもなおさずヤキンとボハスを「円柱」として持つソロモンの神殿である。すなわち一方ではアベルの諦観に、いま一方ではカインの苦行と呵責に支えられた「原人(アダム)」の教義である。

エリファス・レヴィ 「高等魔術の教理と祭儀」(1855-1856) 祭儀篇 第4章「四つのものを呼び出す咒文」より ※キリスト教によって採用された「十字架の印」は、ただ彼らキリスト教徒だけのものでは無い。カバラの教えにおいても用いられ、自然の諸力の対立と四つ組の均衡とを表している。本書「教理篇」の中で示した「主祈祷文」の秘教的詩句よりしても、もとは二通りの言い回しがあった事が伺える。一方は聖職者および修行を究めた人間の為だけに取っておかれ、もう一方は初心者および一般大衆に授けられたものである。

・ヴルガータ(Vulgata)ではラテン語に未訳のマタイ伝第6章13節の末文についてだが、改めて、欽定訳版の英訳文からラテン語に翻訳せずとも、エリファス・レヴィ 「高等魔術の教理と祭儀」祭儀篇 第4章において記述がある。’Tibi sunt Malkuth et Geburah et Chesed per aeonas'(御国と力と栄えは、永しえに通じて汝のものなればなり)ATH MLKVTh VGBVRH VGDVLH LOVLM AMN

ダイアン・フォーチュン 「神秘のカバラー」(1935)・第1章より ※太古より伝わる、このヘルブ人の神秘的伝統は、三種の文献をもっていた。『旧約聖書』として知られる『律法の書』と『預言者の書』、『タルムード』つまり『聖書』に関する学者的注釈の集成、それに「カバラー」つまり、それに関する神秘的注釈である。この三種について古代ラビは、『聖書』は伝統の肉体であり、『タルムード』は、その合理的な魂であり、「カバラー」は、その不死なる霊であると言っている。無知な人々は得をする為に『聖書』を読む。学者は『タルムード』を研究する。だが賢者は「カバラー」に則って瞑想するのである。奇妙な事だが、これまでキリスト教の聖書学者は『旧約聖書』を解く鍵を「カバラー」の中に探求した事は一度もなかった。 ※「われわれの主」キリストの時代、パレスティナには宗教上、三つの宗派があった。パリサイ人とサドカイ人については『福音書』の中で幾度も論じられているが、エッセネ派に関して、ほとんど出てこない。秘教的伝統によれば、ヨセフの子イエスが12才の時(ルカ伝・第2章)、エルサレムの「神殿」で質問したとき、それを聞いた博学な律法学者達はイエスの神童ぶりを認めて、死海の近くにあるエッセネ派の宗団に彼を遣わしたという。イスラエルの神秘的伝統の中で訓練を受けさせる為である。イエスは、そこに30才まで逗まり、伝道を始める前、ヨルダン川で洗礼を受ける為にヨハネのところに行った。いずれにしても「主祷文」(マタイ伝第6章9節-13節)の最後の言葉は、全く「カバラー」体系そのものである。「マルクト」「ホド」「ネツァク」は「生命の樹」の基礎となる三角形であり、その中心は「イエソド」である。この祈りを作った人は、誰であれ「カバラー」を知っていたのである。

キリスト教の主教・司祭が信徒を祝福する際、十字が画かれるが、カトリック教会・ギリシア正教会とも共通して片手で画く際は、主教・司祭から見て上・下・左・右の順に空中に十字を画き、相対する者を祝福する。信徒が十字を画く場合においては、カトリック教会とギリシア正教会では左右の画く動きが逆となるが、十字架を示した信仰表明の意味である点は、教派を越えて共通する。公的な場において、むやみに信徒が信徒を祝福する事は控えられるが、極めて親しい信徒同士(夫婦・家族等)では(あくまで私的な領域で)十字を互いに画いて祝福する事もある様である。初期キリスト教の論述「ディダケー」7章やユスティノスの「第一弁明」61章によれば、洗礼の際に三位の名によって式を行ったと記され、洗礼の際に十字架の印を画く習慣は2世紀頃からで、司祭が祝福する際に十字架の画く様になったのは4世紀頃からであり、自らの額から胸に垂直に降ろし、次いで、手を両肩に水平に動かして十字架の形を印す様式は五世紀頃からとみられている。もとは、右肩から左肩の順で画く様式を西方教会もとっていた様だが、次第に左肩から右肩の順に移行したとみられる。

・かつて、数学的に証明された事は、議論の余地はなく永遠不変の真理であり、数学を基盤にし、証明を積み重ねていけば、いつかは、世界の全ての問題を解決する理論体系に到達できるのではないかと信じられていたが、クルト・ゲーデルは数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえない事を数学的に証明している。「1・ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する。」「2・ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無い事を、その理論体系の中で証明は出来ない。」完全無欠に見える数学理論の中にも「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が含まれている事を意味しており、そして、数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明する事が、そもそも不可能である事を証明したのである。論理的(数学的な)に突き詰めていけば、どんな問題についても真偽の判定が出来て、それを積み重ねていけば、いつかは真理に辿り着けるという考えは間違いであり、どんな理論体系(数学的な)にも、証明不可能な命題が必ず存在しており、その理論体系に矛盾がない事を、その理論体系の中で決して証明する事は出来ずにあり、自身で完結する理論体系は構造的にはありえない。何かしらの判別が、その理論体系内において出来ない事は少なからずあるものである。

・通常、「知っている」事の内容は明確な形を伴う。分からない事を「知っている」とは謂わない。では、「何かは知らないが、知らない事が在る事を知っている。」場合は、どうであろうか?この場合、知らない事であっても「何かしらの形」を与える事が求められるであろうし、言葉や寓象は、誰かしらが知っていなければ、通常は音や形のままであって、その伝達の役割を果たせず、誰かしらが知っている事に託さなければ、表現の俎上に載せる事も困難であって、この「誰か」が特定のものであったならば、多くにとって、秘密に満ちた隠されし意味を帯びる事となる。伝えられし言葉や寓象には、表層的な意味の向こう側に隠された意味が複雑に存在する事があり、加えて、それらが単体だけに収まらず、複雑に組み合わさる事で、更なる意味が潜む事とてあるものである。例えば、何か、ある藝術作品に接した際に、作品そのままから伝わる直接的な感動とか印象等よりも、その作品に関する第ニ義的な、謂わば知識と称されるものの方を、より重要なものだと捉えて、枝葉的な知識とか解説無しには、本当の鑑賞はあり得ないものだと考えたり、あるいは、如何に自身が作品から直接的に強烈な印象なり感動を受けたとしても、これを決して最終的な価値判断の尺度とする事は無く、より権威があると考えられる他者の意見、謂わば定評を頼ろうとする態度を無自覚な習慣の如く続けるならば、豊かに隠された潜む存在の気配を察する事など困難である。

 

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雑記

文化人類学ジェームズ・フレイザーは、古典や民族誌資料を広く渉猟し、人類の知的発展課程における思考的特徴として共感法則(類似の法則、感染の法則あるいは接触の法則)を定義した。共感法則とは「接触したもの同士には、何らかの相互作用がある」と考える思考的傾向の事であり、更に2つに大類されている。類似の法則とは、「あるものが行動すれば似たものも同様の事をする、何かに起こる事は似たものにも起こる、似たもの同士は性質を共有する」といった「似たものには何らかの関係がある」と考える傾向の事である。感染の法則あるいは接触の法則とは「以前は一つであったもの、互いに接触していたものには、離れた後も繋がりが存在しており、片方に起こったことは他方にも影響を与える」と考える傾向の事である。これらは、実際に物理的事実関係が伴わずとも、観察者が「その様に」認識する傾向にあるという事であり、現状においても多く見出される特徴である。

・アンモニオス・サッカス(Ammōnios Sakkas)。アレクサンドリア港で荷役をしていた事から、担いだ麻袋(Sakkas)の名が付けられた。アンモニオスはテオディダクトスと呼ばれもしたが、アンモニオス自身はフィロレシアンだと称しており、弟子にはプロティノスやオリゲネスらがいた。アンモニオス自身は著書を遺していない。アンモニオスの扱いについて、1875年に神秘主義者H.P.ブラヴァツキーが神智学協会の創設の際に神智学の祖として祭り上げてしまい、アンモニオスの生涯や思想を巡って様々な憶測が生まれてしまい、疑似宗教的な観念や、アンモニオスの思想を上辺だけなぞった様な発想が、なんら裏付けも無いままにアンモニオス本人と結びつけられてしまう結果を招いた。

・ドイツのルドルフ2世の宮廷医であったアンセルムス・デ・ブート(1609年)は、貴石について所持する事で得られる効果について著書で述べていたが、現代の科学における認識において多くは妥当性が得られていない。記述によれば、効果が肯定的に捉えられていた当時においても迷信・偽りが多かった事が読み取れる。著書において、この点についても述べている。「しかしながら、宝石が持っていない多くの効力まで宝石のものだと誤って認識されている事には注意していく必要がある。」科学における妥当性を得る必要ある分野に限らず、そうでは無い分野においても、宝石や準宝石から何らかの効果を期待するならば、アンセルムス・デ・ブートの一文を踏まえて、由来や経緯の詳細を確かめてから取扱いを考えるべきだろう。

・第3代イスラエル王であったソロモンがその英知をもって悪しき精霊を支配していたという話が、紀元前3世紀頃、ヘレニズム期のユダヤ人の間で流布していたとみられる。1世紀、ユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフの証言では、同時代のウェシパシアヌス帝の頃にユダヤ人のエレアーザルが所有して用いたとしている。1350年に教皇イノセンス6世による令でローマ異端審問所で焚書扱いとされる。ソロモン王の名が付く写本による魔法書群は数多く流布され、その内容は多様であり混在がみられ一定していなかったとみられる。流布した写本には東方起源の信仰やヘレニズムの占星術やジプシーの民俗的要素などが含まれていたとしている。それらが17世紀中葉には刊本による流布されて、19世紀末にサミュエル・リデル・マグレガー・メーザースが大英博物館所蔵のフランス・イタリア・ラテン語等の7種類の写本から再構成して英語版を作成し復刻した。サミュエル・リデル・マグレガー・メーザースにより、多く知られる事になった魔法書として、他にはアブラメリンが挙げられる。術士アブラメリンの聖なる魔術の書(The Book of the Sacred Magic of Abramelin the Mage)は、善しき悪しき精霊を使役する方法を記した書であり、原題はドイツ語でアブラメリンの書(Buch Abramelin)、或いは単に「アブラメリン」とも略称される。マグレガー・メイザースが、1893年にパリのアルスナル図書館に眠っていた、18世紀のフランス語訳写本を英訳して1897年に出版した事で知られる。アブラメリンの著者は14世紀から15世紀のドイツに住んでいたユダヤ人Abraham von Wormsが、エジプトでAbramelinと名乗る人物から伝えられたもので、Abraham von Wormsが、息子のLamechに宛てた書簡という体裁で綴られる。現段階においては、18世紀フランス語訳写本の他に、17世紀と18世紀の複数のドイツ語版と、18世紀のヘブライ語訳の存在が確認されており、元々はドイツ語で書かれたものと推測されている。第1の書では、著者が修得した経緯や概要等、第2の書では、実際の修得方法、第3の書では、数多くの魔方陣が紹介されている。

・ソロモン王の魔法書群。「The key of solomon the king ソロモン王の大きな鍵(「大きな」を省略されて「鍵」とする場合がある)」1889年にマサースによって出版されたソロモン王の鍵 (The Key of Solomon the King) は、マサースが大英博物館(現・大英図書館)所蔵の複数の手稿本を基に再編した英訳版「ソロモンの鍵」。「ソロモンの鍵」には複数の版が存在して、複数の翻訳があり、些細な異同もあれば顕著な相違もある。原本は14・15世紀のラテン語版かイタリア語版であろうと見られている。現存する写本のほとんどは16世紀末か17・18世紀のもの。本書と密接に関連した15世紀のものと推定されるギリシア語の古い手稿(ハーリーアン写本5596)も存在する模様。フランス語写本があるが、1641年に遡る一点を除き、すべて18世紀以降のもの。ギリシア語写本では「ソロモンの魔術論」と称されており、内容は「ソロモンの鍵」と類似、イタリア語版やラテン語版の元になった原典である可能性があるとみられている。ヘブライ語版の写本は2点残存する模様で大英図書館に保管。オリエンタル・コレクションの羊皮紙文書(写本6360,14759) ラテン語版かイタリア語版の「ソロモンの鍵」の後代の改作とみられている。16世紀のものとされたが17・18世紀のものであるとみられてる。「Lemegeton Clavicula Salomonis レメゲトン」。レメゲトンは、Lesser Key of Solomon ソロモンの小さな鍵とも呼ばれる。ソロモン王の鎖骨とも訳されるが、Claviculaを「鎖骨」の意味に取った解釈。5部構成だが、各々が別個に成立した後に合本されたものとみられ、相互の関連は薄い。「Goetia ゴエティア」。ソロモン王が使役したとされる悪しき精霊の性質や使役方法を述べた書。Goetiaはギリシア語ゴエーテイアのラテン語形。16世紀の神聖ローマ帝国の医師ヨハン・ヴァイヤーによる「悪魔による眩惑について」の第五版補遺と、内容の多くが共通するとの指摘があるが、ゴエティアの成立時期が不明の為、何れかが基となったのかは現段階では不明。1904年にクロウリーによって出版されたThe Book of Goetia of Solomon the King(ソロモン王のゴエティアの書)は「レメゲトン」の第一部「ゴエティア」に、魔術に関する序説、召喚文のエノク語バージョン、アウゴエイデス勧請などを加えたもの。収録された「ゴエティア」はマサースが大英博物館所蔵の「レメゲトン」の英語写本から写したもので、黄金の夜明け団内で貸与されていた。クロウリーヘブライ語ラテン語、フランス語、英語の写本を比較対照して構成された英訳としているが、誤りであるとの指摘がある。アレイスター・クローリーが許可無く序文・註記・付記を加えてしまった事は留意すべきだろう。「Theurgia Goetia テウルギア・ゴエティア」。善悪双方の精霊の使役法を記した書。Theurgia とは、古代の新プラトン学派の神霊を勧請する祈祷等の儀式的実践であるテウルギアのラテン語形。Ars Paulina アルス・パウリナ。惑星時間を支配する精霊、黄道十二宮に宿る精霊や十二宮の中の惑星など、星に関する魔術についての書。善なる精霊のみを取り扱っている。なお Ars Paulina とは「聖パウロの術」の意味。ソロモン王のテウルギアの書 第一章とも呼ばれる。「Ars Almadel Salomonis アルス・アルマデル・サロモニス」。天の四つの高度と黄道十二宮を支配する大精霊についての書。善なる精霊のみを取り扱っている。アルマデル(Al-madel)というアラビア語ともみられるものの意味は明確では無い。ソロモン王のテウルギアの書 第二章とも呼ばれる。「Ars Nova アルス・ノウァ」。ソロモン王が神殿の祭壇で行っていた祈りの書とされ、魔術一般と聖なる知識について記されている。天使ミカエルが、稲妻とともにソロモン王に授けたという。また、ソロモン王はこれと同時に多くの神からの手記を受け取っており、これによって名高い智恵を得たという。Ars Nova とは「新しき術」の意。Ars Notoria「名高き術」、Ars Notaria「書記術」とも言う。

・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルアレクサンドリアのフェロンを筆頭にカバラ派の哲学やグノーシス派の神学について舌鋒鋭く言及していた。「イエツイラア」はアキバ・ベン・ヨセフの著書とされ、フェロンの影響がみられエジプト的な教養の書であったとG・W・F・ヘーゲルは指摘して、カバラグノーシスはフェロンの思想体系に順じているとしている。「イエツイラア」の著者であるアキバ・ベン・ヨセフは、エルサレム滅亡のすぐ後の人物でユダヤ人20万による軍によるハドリアヌス帝への反攻に関与して処刑されている。「ゾハール」は、アキバの弟子であるシメオン・ベン・ヨハイによるものとされている。この2書は17世紀にラテン語に翻訳される。さらに「天国の門」の著者はイスラエル人のアブラハム・コーヘン・イリラであり、15世紀のものでアラビア哲学やスコラ哲学にもふれる。G・W・F・ヘーゲルは、初期のユダヤ民族には、神が光であり、その対極の闇や悪といった観念は無く、善の天使や悪の天使という観念や、悪人の没落や地獄行きの観念、最後の審判や肉の堕落といった観念も無かったと指摘していた。ユダヤの民が自分達の思想を現実に押し広げたり、様々な要素を受け入れたりした時期の動向を加味した方が良いかもしれない。

 ・後世に多くの影響を与えている黄金の夜明け団には2つの方向性があった事が指摘されている。1つ目は、マクガレー・メイザースの異教的なヘルメス思想に拠るスタンスであり、2つ目は、アーサー・エドワード・ウェイトによるキリスト教的な薔薇十字思想に拠るスタンスである。異教的なヘルメス思想に拠るスタンスでは、「自己を神と等しくしないならば、神を理解する事は出来ない」という表現が典型的に見られる様に参入者は「神」そのものに成ろうとし、キリスト教的な薔薇十字思想に拠るスタンスでは、キリスト教の始原への接近の仕方が境界を越えない範囲で行われる様に、「神」そのものに成る事を望まず「神」に接近しようとするものであり、その点において相違があるとされている。既存宗教の「神」の定義について考察するならば、神は世界の絶対的な意思決定者とされているが、この定義を満たすには、意思決定が反映される「意思決定の場」である世界とは、「非連続性」が保持されなければならず、しかも、その意思決定は談合の無い「独立性」が保持されなければならない事になる。この条件においては、意思決定者である「神」は複数ではなく単独となり、しかも意思決定の場である世界とは非連続性である為に、接触も図れないし成り代わる事も同体となる事も不可能であり、当然ながら非連続性内の人間との血縁という関係も生じる事が無い事になる。加えて「神」の意思決定の反映は絶対となる事から、最も抵抗が生じる事の無い合意形成を経る「促す」形式で行われる事となり、多くの抵抗が生じる命令形での意思決定の反映は用いられない事になる。その為、如何にマクガレー・メイザースの異教的なヘルメス思想に拠るスタンスであっても、如何にアーサー・エドワード・ウェイトによるキリスト教的な薔薇十字思想に拠るスタンスであっても、既存宗教の「神」の定義が正確なものであるとする限りは、論理的に熟考が求められるだろう。

・聖書「創世記」の解釈では、創造の第6日に神は自身を象って人間を創り出したとしているが、エリファス・レヴィは著書「魔術の歴史」(1859)において、アダム・カドモンは、神が創造の大海に自らを映して創ったとするゾーハルにおけるアダムの創造についての解釈について述べている。ゾハールの著者は、シメオン・ベン・ヨハイとされるが、イエツイラアよりも思想的にも発展しており、それより古いとは考えられず、新プラトン主義の影響も顕著であり、加えて文法上のミスもみられる事から、13世紀以前の著作とは考えられないとみられ、実際の著者としてはモーシェ・デ・レオン(1250-1305)が有力とされている。

・鏡に対して面対称な関係にある2つの像体は、回転移動や平行移動では完全に重ね合わせる事は出来ない。換言するならば、N次元の座標空間で合同ではあるが、特定の対称性(N+1)を持たない限りは、N次元の座標空間内での回転と並進だけでは、完全に重ね合わせる事は出来ない。例えば、1次元の座標空間である直線上に存在する■□と□■は、0次元の座標空間である点に対して対称であるが、2次元の座標平面上(N+1)で180度回転させない限りは、直線上で動いても完全に重なり合う事は無い。鏡に自身を写し視る時、鏡像の位置に自身を仮想的に移し置き、自身を水平方向に回転移動させて視ている為に、自身を写す鏡像が左右反転して視えるのであって、自身を写し視た鏡像(Reflected Image)に客観的性質があるわけでは無い。実際の鏡像は3次元の座標空間の像体の奥行き(前後)が反転された2次元の座標空間としての像体であり、それを視る自身が左右反転に捉えているのである。

・薔薇十字団の起源については不明な部分が多いが、多くに知られる様になったとされる時期は、ドイツ・カッセルにて匿名で出版された宣言文書「友愛団の名声」(1614年)と「友愛団の告白」(1615年)と同期であり、その後に出版された「化学の結婚」(1616年)と共にヨーロッパにおいて様々な影響を与えた。「友愛団の名声」の初版には、「世界の普遍的かつ全般的改革」と「アダム・ハーゼルマイヤーの返答」が合わせ綴じ込まれていた。マクシリミアン大公の公証人アダム・ハーゼルマイヤーが、呼びかけに応じた事により、イエズス会士に拘束されてガレー船に鎖で繋がれた事について序文で触れ、薔薇十字団員を「嘘偽り無きイエズス会士」と呼んでいた。(ローマ・カソリック修道会であるイエズス会は、ルターによる宗教改革の新勢力に対抗しようとした反宗教改革運動の動きとして位置づけられている。) その後に出版された「化学の結婚」なる文書に関わったとされるのは、ルター派の牧師であったヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーとされており、背景にはチュービンゲン大学のグループが関与していたとみられてる。イギリスにおける薔薇十字運動の中心的な人物は、ロバート・フラッドであったとされ、薔薇十字思想のに対する批判的な論争が激しくなった1633年頃を境に「薔薇十字団」の名称は使用されなくなり、その後まもなく「メイソン」という言葉が登場する事になる。(1633年から1640年頃とみられる)近代フリーメイソンが正式に発足した時期は、1717年のロンドンにおけるグランド・ロッジの設立による。1723年にはフリーメイソン憲章の承認されて組織編制や制度が整えられるが、啓蒙主義の実践形態であるフリーメイソンとの思想的な親和性も含め、薔薇十字団の後継であろうとする見方が古くからあるが、表立って定かでは無いにしても、当時の教会による宗教的な人間像から抜け出し、真の意味における近代的な人間像が確立された啓蒙主義の時代の一助となっていたとみられる。少なくとも1750年代までには、メイソンでも一線を画していたスコットランド系のメイソン・ロッジで薔薇十字運動を受容する動きが見受けられ、1865年に、ドイツの薔薇十字団にやや類似した、マスター・メイソンに限定されてたメイソン系の薔薇十字団体である英国薔薇十字協会が設立されており、フリーメーソンが、薔薇十字運動について全くもって無関係であったとは言い切れない。

・エノク語を用いた魔術は「黄金の夜明け」でも用いられたが、第一団ではなく「ルビーの薔薇と金の十字架」団のアデプタス・マイナーの扱いとされていた。エノク魔術の詳細について言及する考えは無いが、表記・発音等と、これを用いる者には深い思慮が求められる。思慮する際には基礎となる資料に基づくべきである。識者によれば、16世紀後半以前にエノク語を用いた魔術が存在した物証は無く、イギリスのジョン・デイー氏に由来する点は疑いようがないとしている。エノク語の起源については未だ定かではなく、消失言語の1つとする諸説があり、飛躍的な言説も少なくは無いが、明らかになっている事は、ジョン・デイー氏(1527-1608)の「リベル・ロガス」について、1970年代に言語学のドナルド・レイコック氏(オーストリア)らにより詳細に分析した結果、一定の文法的構造が存在している事が確認されている。この分析に携わったコンピューターが専門のデイビッド・ラングフォード氏による「ジョン・ディー文書の解読」によれば、コンピューターによる演算解析の助けで判明したとしており、「リベル・ロガス」は断片的なものであり、判読可能な単語が、凡そ7000語あったとしており、少なくともジョン・デイー氏らによる創作言語である可能性は低いと考えられている。

・あらゆる音は周波数を持っており、人間が発する言語の発声も例外では無く、言語の発声(音)は各々で主に用いられる周波数帯(音域)は固有の特徴が見出されているが、これらが異なるのは子音の使用頻度が増すと見出される周波数(音域)は高くなる傾向となり、母音の使用頻度が増すと見出される周波数(音域)は低い傾向にある為による。詠唱などで言語の発音に重きを置く場合に旋律が求められる事があるが(念の為に注意しておきたいが、旋律が伴う詠唱と朗読では雲泥の差がある。)、用いられる言語の音域の高低に特徴が見出される事も把握しておくべきだろう。尚、人間の平均的な可聴領域は、各々の言語の主な周波数帯よりも広く、言語の識別難易度は別として数値的には差し支えは無い。 参考までに言語別の主な周波数帯(音域)は、日本語の場合は約125~1500Hzであり、日本の近隣のロシア語は125~8000Hzと広く、中国語はアメリカン・イングリッシュに比較的類似した数値であり、韓国語の周波数帯は日本語と類似しているが、若干範囲が広くなる。欧米の言語では、ブリティッシュ・イングリッシュは2000~12000Hzとなり、アメリカン・イングリッシュは1000~3000Hz強(もしくは4000Hz)であり、フランス語は125~250Hzおよび1000~2000Hzとなり、スペイン語は125~250Hzおよび1500~3000Hzとなり、イタリア語では2000~4000Hzとなり、ドイツ語は125~3000Hzとなる。ちなみに1939年にロンドン国際会議で決められた国際高度はA4で440Hzである。

 ・西洋思想において、頂点が上向きの『五芒星(pentagram)』は、頂点に「霊」、右上点に「水」、右下点に「火」、左下点に「地」、左上点に「風」が配され、4方向においては、東に「風」、南に「火」、西に「水」、北に「地」が配され、中央には「霊」が配される。五芒星と対の関係にあるとされる『六芒星(hexagram)』の場合では、最上点に「土星」、右上点に「木星」、右下点に「金星」、最下点に「月」、左下点に「水星」、左上点に「火星」が配され、中央に「太陽」が配され、4方向においては、東に「火」、南に「地」、西に「風」、北に「水」が配される。アリストテレス(紀元前384年ー紀元前322年)の考え方に従うならば、「火」は第一質料(prima materia)と「乾」「熱」の組み合わせであり、「風」は第一質料(prima materia)と「湿」「熱」の組み合わせであり、「水」は第一質料(prima materia)と「湿」「冷」の組み合わせであり、「地」は第一質料(prima materia)と「乾」「冷」の組み合わせとなる事から、『五芒星(pentagram)』と『六芒星(hexagram)』の対における4方向の共通項は、東に「熱」、南に「乾」、西に「湿」、北に「冷」が見出だせる。だが、共通項の組み合わせで考察すると、四大は東南に「火」、西北では「水」が成立するが、東北と西南では成立しない事になる。

・ヨーロッパ圏でゲーベル(Geber)の名で知られたアラビアの錬金術ジャービル・イブン・ハイヤーン(Abu Mūsā Jābir ibn Hayyān al azdi)は、魔方陣を用いた事でも知られており、3×3の魔方陣を用いて1,3,5,8の数と合計17に、魔方陣の合計45から17を差し引いた数である28を特別な数字としていたとされている。3×3の魔方陣は東洋思想では「洛書」の九宮図が知られているが、ジャービル・イブン・ハイヤーンが見做していた1,3,5,8の数は、九宮図においては東北部分に該当している。洛書についてだが、漢書「五行志」では劉歆の説として「虙羲(伏羲)氏は天を継ぎて王たり、河図を受け、則りてこれを畫く。八卦是れなり。禹は洪水を治め、洛書を賜る。法りてこれを陳す。洪範是れなり」としている。又、数の配列そのものは漢代には存在していたが、図象化されたのは宋代に至ってからであろうと見られている。

・改めて、四大を東南に「火」を、西北に「水」を配した条件において考察するならば、西北の「水」を成立させる西の「湿」と北の「冷」を入れ替えるか、或いは東南の「火」を成立させる東の「熱」と南の「乾」を入れ替えれば、東北と西南に「風」「地」もしくは「地」「風」が成立する事になるが、東洋思想における『五行大義』の一文においては『兵書に云ふ、陽は甲子に生じて戌亥に足らず。仍りて天門と爲す。陰は甲午に生じて辰巳に足らず。仍りて地戸と爲す。陽は甲寅に界して子丑に足らず。仍りて鬼門と爲す。陰は甲申に界して午未に足らず。仍りて人門と爲す。』としており、先に述べた東南と西北でのみ成立する事は興味深いものがある。

 

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雑記

・民族的出自として用いられる「カルデア人」という名称は、ローマ期においては民族的出自とは無関係に占星術に携わった者を示す際に用いられていた。そして紀元前5世紀のヘロドトスの時代からエジプトは神錆びた知識の貯蔵庫と考えられていた為、占星術に携わった者達はエジプトを自らの淵源であると主張する事が多く、古代ギリシア人達は長き間、自らの文明は比較的に若いと考えていた為、大変な年代を閲するとされる占星術を発見して、発展したのは自らの文明よりも古い文明だと考えざろう得なかった。しかし、実際に古代エジプトが寄与したのは標準的な暦と、デカンの最初に限られたものであった。占星術は、人間が天体に対する或る程度の知識が得られた段階で成立したものであり、確かに科学的な天文学の刺激になった事実を否定はしないが、天文学の基盤になったとする主張については否定されよう。占星術と密接な関係にあったのが錬金術であるが、英語のAlchemyや近代的な形であるChemistryアラビア語から直接由来する。Alchemyの元となるアラビア語のal-kimia(アラビア語のalは定冠詞)の由来は、ギリシア語で金属の溶解・鋳造を意味するchymaに由来する説が的を得ているだろう。一説ではエジプト説があるが、エジプトを示すとされているkmt或はchemと、錬金術を結び付ける諸文献は見当たらない。又、中世初期にラテン語に翻訳されて多く知られた錬金術において著名なエメラルド板についても、アラビア語版の要約は新ピタゴラス主義者であったテュアナのアポロニウスの著書に見出だせるものであり、加えて、アラビアの説明では、エメラルド板とノアの方舟の関わりが言及されていたが、エジプトではノアの方舟に関して知られてはいなかった。

・古代メソポタミアにおいて、月の相が7日毎に変化する事から特別な数と見做したらしく、これが後に引き継がれたとされている。一週間を7日とする習慣は、古代メソポタミアにおける七支配惑星(※古代メソポタミアにおける月の相の変化から特別な数(7)と見做された事が由来で、その「数」に太陽系の恒星と惑星が割り当てられたのが「七支配惑星」)に由来するとされ、七支配惑星とは地球から遠い順[当時の考え方として]に土星木星・火星・太陽・金星・水星・月の事を示す。プトレマイオス以後は、日時を支配する惑星を示す支配惑星表が流布して、曜日の呼び名の順序も決定された。この支配惑星表に基づき、土曜日・日曜日・月曜日・火曜日・水曜日・木曜日・金曜日という7区分が生じる事になる。又、プトレマイオスの頃には7月から8月頃に巨蟹宮に月、獅子宮に太陽が当てられ、12月から2月頃に宝瓶宮と磨羯宮に最も遠い土星が当てられ、巨蟹宮獅子宮から宝瓶宮・磨羯宮に向けて([当時の考え方として]温かい星から寒い星に向けて)水星・金星・火星の順を一対ずつ振り分けられたとされている。現在の一週間の考え方は、ユダヤ教キリスト教の影響下にあり、旧約聖書・創世記において説かれる「神による6日間の世界創造と第7日目の安息日」がそれであり、ローマ皇帝コンスタンティヌスが321年に日曜日を「イエス・キリストの日」と定めた事から日曜日を休息日とする習慣が生まれた。キリストの処刑日が金曜日であり3日目に復活したと信じられており、ローマ式の数え方では当日も勘定に入れて数えられた事から3日目に該当する日曜日が当てられた。

クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)は、「テトラビブロス」において、この様に述べていた。「多の人が労力を浪費し、説得力のある説明が一つもされない「この戯言」に関しては因果関係の無い自然現象と考えた方がいいだろう。合理的な説明の無い籤や数字ではなく、星とその周辺の場所に関する様々な側面を科学的に探求して得られる予測しか認められるべきではない。」そして、こうも述べていた。「それは哲学でも同じ事」「哲学者の振りをするゴロツキがいるからといって、哲学そのものを破壊する必要は無い。」なかなか手厳しく述べている。

・アッシュールのイシュタル神殿では、十六弁の紋様を用いたものが出土物が多数確認されている。イシュタル神の象徴とみられ、この十六弁の紋様はロゼッタ紋と呼ばれており、薔薇をモチーフにしたものとみられている。イシュタル神の象徴とみられる薔薇をモチーフにしたとされてる十六弁の紋様のロゼッタは、メソポタミアの影響圏では多数みられる様であり、エジプトでは蓮の紋様として捉えた様であり、日本では菊の紋様として用いられている。メソポタミアロゼッタ紋の他には、マルタ十字にも類似するカッシート十字があり、これは太陽神の象徴だったともみられており、後に太陽円盤、更には有翼円盤に置き換わる。日本の歴史に纏わる俗説で、明治期に貿易商として来日したニコラス・マクラウドが発端の日本・ユダヤ同祖論なるものがある。これに類似した俗説として、江戸期に来日したエンゲルベルト・ケンペルが発端の日本・シュメール起源説があり、この俗説は、特に第2次世界大戦中に横行したそうである。日本・シュメール起源説なる俗説については続きがある。この俗説が横行した為に、中原与茂九郎・京都大学名誉教授によって、日本ではアッカド語の原音に近い表記である「シュメル」を用いる事なく、「シュメール」の表記を用いる様になったそうである。知られている様でいて、あまり知られていないが、古代オリエント史が専門の故・三笠宮崇仁親王殿下は、こうした俗説が横行と、中原与茂九郎・京都大学名誉教授による対応といった事情を踏まえて、研究に関する著述上においては、学術的な正確を期する為に、敢えてアッカド語の原音に近い表記を採用したそうである。

・樹木は古くから、所謂「聖樹」として看做される事があり、古代オリエントなどでは、棗椰子は枯渇する事の無い生命の力を象徴する図像の主題とされた。生命・豊穣への想いは、限りある儚き命への想いであり、掛け替えの無い恵みへの想いでもある。

・古代メソポタミアのイシュタル。フェニキア名はアシュタルテ(Ashtarte)シュメール名はイナンナ(Inanna)若しくはニン・アンナは、愛と豊穣、また戦闘と金星を司る女神。天の女主人の名を持ち、バビロニア神話の「イシュタルの冥界下り」では地母神的に表されたり、ギルガメシュ叙事詩では愛と豊穣や戦闘の女神として表されたりもした。

・古代メソポタミアの神話についてだが、最古の主神はアンであったが、都市ウルクの政治的覇権が弱まり、エンリルに移行。アッカドの時期も言及す程の変動はみられず、政治的覇権がアモリ(シュメル語でマルトゥ「西方」)に移行するのに伴い都市バビロンの守護神マルドゥクに移行したとみられてる。最古のシュメルの神々の王アン(an)は、楔型文字の表記では「天・神」を意味する。他の神々の場合は、限定詞を付けるが、アンの場合は付かない。天空神とされるアンは、都市ウルクの守護神でもあるけども、娘の神であるイナンナが代わる事になる。※補足 : 限定詞(漢字表記の偏に相当)についてだが、 神を意味する限定詞は、ディンギル(dingir)。ディンギルは、アン(若しくは、アヌ(Anu))の場合は同一文字の為、例外的に限定詞は付かない。
・古代メソポタミアの言語についてだが、バビロニア期にはシュメル人は既に政治的主権を失い、アッカド語が日用語になっていた様であり、シュメル語による伝承記録を残す試みがみられ、エンリルと関わりある都市ニップルにある図書館の遺跡では、粘土板文書が多く出土。セム語族セムの由来は、旧約聖書・創世記のノアの子に由来する便宜的な名称で、東方セム語はアッカド語(バビロニア語・アッシリア語)、西方セム語は、北西セム語(カナン語・アモリ語・アラム語)と南西セム語(アラビア語・南アラビア語)に分類されている。

・大気の神エンリル。都市ニップルの守護神エンリル(enlil)は、シュメル語で「主人・風)の意味。力(権威若しくは破壊的な力)を象徴して「荒れ狂う嵐」「野生の雄牛」と呼ばれる。天空神アンとは異なり、エンリルは執行者的な色彩を持っている。天と地から誕生したのが風(大気)の神エンリルとされており、天地を分けたとされ、天を運び去ったのが天空神アンで、エンリル自身は、地(キ)を運び去ったとされる。シュメル・アッカドの時期を通じて主神であった事から、大きな民族的な対立は無かった模様。

・都市バビロンの守護神マルドゥクアッカド語Marduk)のシュメル語名は、アマルウトゥ(amar-UD)「太陽の若き雄牛」。アッカド語で、単にベル「主人」とも呼ばれる。政治的覇権がアモリ(シュメル語でマルトゥ「西方」)に移行するのに伴い主神となった。マルドゥクは、時期は不明であるがエリドゥ付近の都市クアルに神殿を持ち、古いシュメル系の神アサルルヒと習合されていたとみられる。父神エアと共に悪魔払い儀礼の守護神とされてアサルルヒの名で呼ばれていた様だが、本来は、農耕神であったとみられる。

・古代メソポタミアの神々に対する祈りの言葉には、非常に高位にある、近づき難い存在への遠心的な感情は多く見られるが、神に対して人々が心をときめかせて、情熱に任せて焦がれる様な感情を抱くものは見出す事は出来ない。崇敬・感嘆・平伏の念が多くを占める。他方、特別な位置付けとして捉えられていた「個人の神」(逐語的には「ある人の頭上の神」)に対する人々の姿勢は、先に述べた古代メソポタミアの神々とは異なってくる。個人神の場合は名前が無いのが普通であり、礼拝者からは「我が神」や「我が女神」と呼ばれた様である。加えて、庇護者の運命に責任を負うとされた個人神は、先に述べた高位の神々との間の仲介者を受け持つ存在とされていた。古代メソポタミアの神々に対する当時の人々の感情について考察する際には、後の世代の宗教的な感覚は遠ざけておく方が望ましい。見誤る要因となる。

・古代メソポタミアの「神」を意味する限定詞(漢字の偏に相当)はシュメル語でディンギル(dingir)、アッカド語でイル(ilu)であるが、表記で用いられた文字は「星」を表したものであり、天・とりわけ上方・一際高い・抽んでて優越しているものを指して用いられる。古代メソポタミアの神々に対する人々の捉え方は、非常に高位にある、近づき難い存在である遠心的な感情が占めたものであった事は、人間に対する優越性が強く意識された「神」を意味する限定詞(漢字の偏に相当)の文字からも見出だせるだろう。
・古代メソポタミアの場合は、天体の中でも「月」に上位を与えていた。黄金は、太陽やエンリル(Enlill)と関連付けられ、銀は、月やアヌ(Anu)と関連付けられていた様である。一方、古代ギリシアの場合は、周知の様に「太陽」に、上位を与えてた。天体に対する見解に差異がある。

・豊穣女神 イナンナ (アッカド語で「イシュタル」)天の女主人(ニン・アンナ)※ニンは「女主人」の意味。マッサト(「王女様」の意味)、テリトゥ(「並外れた強さ」の意味)等の多くの称号を持つ。随獣に獅子を従える姿は、先史時代(サマッラ期)の「豹」を従えた豊穣女神に先例が見出されてる。バビロニア期には、暁の明星・宵の明星(金星)の女神とされるが、暁の明星・宵の明星の同一性が確認されたのは古バビロニア期(バビロン第1王朝時代)の事である。戦いを司る女神とされたのも同様に古バビロニア期頃よりとみられている。アヌニトゥム(イシュタル・アヌニトゥム「女戦士イシュタル」女神の軍事能力面を強調した称号)は、アッカドの女神名であり、古バビロニア期の叙事詩では戦争女神で表現されていた。

・シュメル神話において、イナンナ女神と関係した「聖婚儀礼」に纏わる神話があり、
神話の内容では、農耕神エンキムドゥに心を寄せていたイナンナ女神に対して、兄弟とされる太陽神ウ卜ゥが牧畜神ドゥムジとの婚姻を勧めて、結果的に牧畜神ドゥムジと婚姻を結ぶ内容の展開である。神話に基づき、毎年挙行されたシュメルの「聖婚儀礼」では、牧畜神ドゥムジの代理として王が務めて、イナンナ女神の代理として女性祭司が務めて婚姻を結ぶ儀礼形式をとっていた。尚、この場合における王とは、政治的な統率者である王(ルガル)の事でなく、宗教的な統率者である王(エン)の事である。イナンナ女神に関する神話では、牧畜神ドゥムジ(タンムズ)を探求して冥界に降りて蘇る「イナンナの冥界下り」があるが、季節的事情と水を用いた灌漑との関係や、再生による持続的な豊穣が読み取れる。この神話のモチーフは、他の多くの神話でも繰り返されており、例としては、ギリシア神話におけるデメテルに関する神話やアフロディテに関する神話、エジプト神話におけるホルスを探し求めたイシスに関する神話、カナアン神話における女神アナトに関する神話がある。補足として、カナアンのウガリット文書におけるアッタル神は、死んだ神の身代わりを十分に果たす事が出来ず、広大な冥界全域の領主になる為に地下に降りるが、アッタルの名前は、灌漑を意味するアラビア語の動詞アタラ(athara)と関係があるとみられている。「イナンナの冥界下り」では、イナンナの従者ニンシュブルが、主人の救済の為に神々に援助を求めて水の神エンキ(エア)が救いの手を差し伸べるが、水の神エンキ(エア)に関する神話(エンキとニン・フサルグ)においては、大地の女神と水の神エンキ(エア)との婚姻から植物が生まれたとしてる。尚、大地の女神ニン・フサルグ(「山の貴婦人」の意味)の意味は、メソポタミアの低地の湿地帯や、氾濫した水上にシルトを積み上げる事に由来するものとみられている。神話では、その間に必然的関係を見出す事は困難ではあるが、大地の女神ニン・フサルグは幾つかの名前で現れている様で、神話の展開では、既に万物が生成された後の時期における大地と水の結合による生成の神話であろうとみられてる。

 ・古代ギリシャの哲学で用いられた、’元のもの’「アルケ(archē)」を’無限なるもの’「アベイロン(to apeiron)」としたのは、ギリシアの哲学者タレスの後輩にあたるアナクシマンドロスであるとされ、アベイロンを哲学用語に用いられた最初の人とされている。アナクシマンドロスは、万物がそこから生成して、又、そこへと消滅するもとのものをアルケと呼び、生成消滅が限りなく繰返され万物のうちに存する様々の対立的性格 (冷と温、乾と湿) が生じる為には、アルケは必然的に質量的規定を受けぬもの、つまりは、アペイロンでなくてはならないと論じた。アナクシマンドロスの弟子であったアナクシメネスは、それを一歩踏み込みアルケは空気であるとして、あらゆるモノの性質的相違が稀薄と濃縮との過程を通して量的な差別化に帰着されると共に、アルケは単に生成の上で原理たるに留まらずとも、構成の上で元になるものとした。アリストテレスによって哲学の創設者と呼ばれたタレスはアルケを水に求めたとされるが、タレス自身は如何なる著作も残さなかった為に、思想の詳細を知る事は同時期の証言を手掛かりにするしか出来ずにある。ヘラクレイトスは不断の変化の象徴とした意味において火に求めたが、対立するものが統一的な結合をするロゴスを見据えていた。エンペドクレスは、水・空気・火に土を加えて四元素説を最初に唱えたとされ、これらは生成せずに常に継続し、結合(愛)と分離(争い)すると論じるも、構成要素として充実体と空虚を主張したデモクリトスと共に形相や本質には僅かにしか触れていない。クセノパネス(土に関して)の扱いについては諸説あって、ここで加えるには問題がある。そしてアリストテレスは、第一質料(prima materia)と乾・湿・熱・冷の性質の組み合わせで論じたが、これが後世にまで影響を与える事となる。

 ・「知識の秘鑰を約束された者たちへの啓示である至高なる万能の神の栄光を讃えつつ、ここに古の賢者たちが公にした書物をもたぬラテン人識者たちに その教説を説くこととしよう。ヒスパニアおよびアンダルシアの尊い王であるアルフォンソ殿は、精魂こめて入念に この書をアラビア語からヒスパニア語に訳すように命じたまうた。その書名がピカトリクスである。」賢王(el-Sabio)とも呼ばれたカスティリアとレオンの王・AlfonsoⅩ(1221-1284)の命によりアラビア語から翻訳されたピカトリク(Picatrix)は、ラテン語訳版の原本であるスペイン語訳版の年代と考えられている「主の1256年、アレクサンドロスより1567年、カエサルより1295年、アラビア暦655年」に完成したとの記述されている。(Perfectus est anno 1256 Domini nostri, Caesaris 1295, Alexandri 1568, Arabum 655.) 世界最古にして古代世界最大の規模を誇ったプトレマイオス朝の大図書館である古代アレキサンドリア図書館は、学府ムセイオンの設立の際に付属の研究施設として設けられ、セラピス神の神殿には本館を凌ぐ規模の分館が設けられていたとされる。当時、広域の文献を収集する事を目的として建設された古代アレキサンドリア図書館は最古の学術の殿堂とも言われており、へレニズム文化の成果を集大成して諸学の発展に大きく寄与した。組織的に写本を作成して多くの著作・学術書を所蔵したとされるが、所蔵文献は巻子本であったとみられる。蔵書数は膨大で数十万巻も所蔵していたとされるが、その正確な数については諸説あって定かではない。度重かの痛手を受けて大図書館は終焉を迎えてしまうが、その点についても諸説あって、その詳細は不明瞭なままにある。

 

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雑記

・日本の陰陽道は、古代律令国家の神祇卜部と並ぶ占術機関である陰陽寮の陰陽科が、大陸(中国)の学問である子部五行類に属する占術や祈祷や祭祀等の呪術である陰陽を選択的に受容して、9世紀頃までには成立し、その後も展開を遂げたものである。

儒教的理念では、災害・怪異は為政者の不徳・失政による戒めとして受け止められていた為、政治責任として問われる事となり、前漢末期には政争に利用され、多数の宰相が罷免されたりもしたし、その後も重大な政治責任として扱われた。祈祷や祭祀等は、儒家思想における為政者の政治責任論の回避する理論としての位置付けがあった事について留意すべきである。漢書「芸文志」では「陰陽家者流 蓋出於羲和之官 敬順昊天 歷象日月星辰 敬授民時 此其所長也。及拘者為之 則牽於禁忌 泥於小數 舍人事而任鬼神」とあり、「拘者これを為すに及んで、即ち禁忌に牽かれ、少数に泥み、人事を捨てて鬼神に任す」(大局を知らない小人がこれに拘ると、禁忌に流され、些細な事を気にして、人事を捨てて鬼神に任せてしまう)と窘めている。日本の吉備真備も「私教類聚」において、顔之推の「顔氏家訓」で述べられた「世に伝えて云う。陰陽を解する者は鬼の嫉むところ」という記述を引用して、自身の子孫に教訓をしている。その有用性を認めて、大要は知っておくべきだが、専業にはすべきでは無いと述べている。用い方を誤るならば危険を招きかねない事は充分に承知していた事が伺える。

 ・「陰陽説」と「五行説」は、共に紀元前403年から紀元前221年頃の中国の戦国時代に成立したと見られ、前漢の時代には両説が結合して「陰陽五行説」が成立したと見られており、前漢末期の劉歆による「七略」を基にした、後漢の班固によって編纂された図書目録である漢書「芸文志」では、典籍を六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略に分類されたが、陰陽五行説に関する記述では「拘者これを為すに及んで、即ち禁忌に牽かれ、少数に泥み、人事を捨てて鬼神に任す」(大局を知らない小人がこれに拘ると、禁忌に流され、些細な事を気にして、人事を捨てて鬼神に任せてしまう)と窘めている。各項目においては当時の基幹的な思想として陰陽五行説が様々な学術と不可分な関係にあった事が見出だされている。

 ・隋の蕭吉による「五行大義」は、佚存叢書(中国では亡失して日本に伝存していた漢籍)である。「古の人君は安けれども危きを忘れず、以って不虞を戒む。故に曰く、天下安きと雖も、戦を忘るる者は危く、国邑強きと雖も、戦を好めば必ず亡ぶ。」(五行大義) 「古之人君 安不忘危 以戒不虞。故曰 天下雖安 忘戰者危 國邑雖強 好戰必亡。」※古き世の指導者は、安らかな時にあっても危険を忘れずに不慮の災いの襲来に注意を払った。世が平安であっても戦災を忘れる者は危うく、国が強大であっても戦いを好む様であるなら自ずと身を亡ぼすと言われている。「古之人君 安不忘危 以戒不虞。故曰 天下雖安 忘戰者危 國邑雖強 好戰必亡。」五行大義の第二・辨體性で論じられてる五行の「金」に関する一文。五行の「金」は、季節ではいえば秋に該当する。秋の言葉には「天高く馬肥ゆる」という言葉があるが、本来は「秋高く馬肥ゆ」であり、辺境からの襲来の時期になったから、防戦の準備を怠ってはいけないという警句として用いられた。(出典・漢書「趙充国伝」杜審言「贈蘇味道」)

 ・武経七書孫子には「天の災いには非ずして、将の過ちなり。」(「非天之災 將之過也」)との一文がある。責任者の統率や指揮采配に絡む敗因は、天が人を罰しようとした降した災いでは無く、ひたすら責任者が犯した過失にほかならないと、これを断じている。「天の我を亡ぼすにして、戦いの罪には非ず」と称した「史記項羽本記における項羽の振る舞いは、その典型と挙げられる。自らの負い目を、何らかの巡り合わせに帰そうと転嫁させてしまう事は、組織においても個人においても陥り易いものである。武経七書の「李衛公問対」においては「愛設於先 威設於後 不可反也。若威加於前 愛救於後 無益於事矣。」とあるが、これは組織の采配について述べたものである。「愛は先に設け、威は後に設く、これ反するべからず。若し、威を前に加えて、後に愛で救っても事に益無し。」(先に恩愛を施し、後から威刑を示すという原則を崩してしまってはいけない。もし、先に威刑を加えて、後から恩愛を施すならば、その人心を掌握する事は出来ない。)書経において「威厳が愛情に勝れば事は成し遂げられ、愛情が威厳に勝れば成功は覚束ない」としているが、これは物事の結果について戒めたものであって、先後の関係について語ったものでは無いと論じられている。

プロイセンモルトケ(Helmut Karl Bernhard Graf von Moltke)は、読書家としても知られている。ゼークトが著書で述べてるが、モルトケは自身の職務に極めて勤勉であったが、その読書は些かの偏狭さも無く、自身の職務に関係する軍事専門書に拘る事もなかった。モルトケは、軍指揮官に可能な限り自主的活動の余地を残す事を信条としていたが、大きく委任するも、放任する事は無く行動したとされる。軍組織は、その性質上から求められるのは「自制心」であり、戦略は、有利な戦略環境を求めるべきものであって、戦闘を求めるものでは無い。モルトケは前線の下士官には勇猛果敢さを鼓舞する士気を求めても、上級の指揮官には冷静さを求めたとされている。「大戦略(Grand strategy)」の目標とは「戦争要因の排除」(或いは「緩和」)である。それゆえに「戦略(Strategy)」の目標は「有利な戦略環境」を求めるべきものであって、戦闘を求めるものでは無い。

 ・中国で儒教仏教道教の三教の間で争われた教義あるいは儀礼に関する論争が行われた。三教間の論争の過程は、文字通りの互いを非難しあう論争が主役であったわけではない。中国において官学とされた儒教道教との間で相互に受容し合うが、道教仏教との間においても相互に受容し合う事となり、仏教儒教道教と相互に受容していく事で、中国仏教へと変貌する事になる。日本文化にも影響を与えた儒教道教仏教の教理・儀礼は、中国において融合折衷の展開の動きがあった事を踏まえなければ、影響を受けた日本での有り様を観ていく際に困難となるだろう。

 ・道教「茅山派」 上清派と称される事もある旧道教の1派。茅山の名は、句曲山(茅山)で得道した漢代の3兄弟・三茅君に由来するもので、宗師の系譜の流れは東晋の楊羲・許穆(諱)らが得た託宣を梁の陶弘景が編纂・付注した経典「真誥」まで遡る。陶弘景の後の系譜は、隋の王遠知から唐の潘師正、司馬承禎、李含光へと継承される。盛唐から中唐の時期の李含光は中興の祖とされた。事跡・著作を収録したものとして「茅山志」がある。経典「真誥」の影響は、日本においても天武天皇(諡・天渟中原瀛真人)や皇后の持統天皇の事例でも見出せる。天武天皇の諱である天渟中原瀛真人は、道教思想にある蓬莱三山の瀛洲に関連した名称であり、持統天皇天武天皇を偲んだ万葉集の歌(巻2-162)からも推測される。経典「真誥」においては「死後に南の朱華宮で修行した後に東海に遊ぶ」とあるが、天武天皇が埋葬された先は、持統天皇と共に関わった藤原京の真南にある。又、皇后の持統天皇崩御(大宝2年)の際では、大祓は中止されたが道教思想が色濃い東西の文部の解除は通常通リ行われていた。東文部は、天智天皇の晩年に天武天皇大津京から吉野入りした際に従っており、天武天皇と生前から関わりを持っていた。

 ・「黄帝内経」素問 霊蘭秘典論篇・第八では、中国における古典医学の解説として内臓器官について、当時の国家体制の仕組みに例えて噛み砕いて論じており、「身体であれ国事であれ、それぞれの道理の深奥は、まことに微妙で測り難く、また表にあらわれる変化の諸相は無限で尽きる事がありません。どうしたら、その本源を突きとめる事ができましょうか。まことに困難というほかありません。多少の心得のある者が、ああでもないこうでもないといろいろ思いをめぐらしたところで要諦を知る事には程遠いでありましょう。それを探し求めて思い悩んでも、どれが最善かわかりはしますまい」と述べている。日本の陰陽道の占書「占事略决」において病気に関する占断があるが、当時の病気に対する認識は、魑魅魍魎等の干渉によるものと考えられていた時代背景から、当時の医療従事者による治療行為を担保する為に用いられたとみられるが、占断に基づく直接的な医療行為に及んだとする記録は確認されていない。「凡人之所汲汲者 勢利嗜欲也。苟我身之不全 雖高官重權 金玉成山 妍艷萬計 非我有也。」(抱朴子・勤求篇)凡そ人の汲汲たる所のものは、勢利嗜欲なり。苟しくも我が身の全からざれば、高官重權、金玉山を成し、妍艷 萬もて計ふと雖も、我が有に非ざるなり。(凡そ、人々が日夜あくせくと求めているものは権勢・利欲である。しかし如何に高位高官に上がって権力をふるい、金玉の山を成して、側に仕える美人は万を以って数える程にあっても、己の身が健全でなかったら、なんの足しにもならない。) 

 ・日本の儒教経典の伝来は、大陸の隋・唐との直接交渉の後に招来された。それ以前にも朝鮮半島、特に百済を通じて若干の典籍の招来が見られるが、推古天皇の御世の遣隋使派遣を契機に、百済を経由する事なく、直接的に隋・唐の文物制度が導入された事は、日本の学術文化にとって大きく寄与するものであった。日本に亀卜・筮占が招来する以前には、太占が用いられるていたが、亀トは太占を補うものとして用いられ、大宝令に基づくならば神祇官に属する卜部の執業とされ、易占(筮占)や式占は中務省に属する陰陽寮の職掌とされた。占法の優先順位は、神祇官の亀ト(官ト)と陰陽寮の易占や式占(寮占)において、判定が異なる場合は官トに従うのが常であった。寮占の1つであった易占(筮占)についてだが、陰陽寮の専管として当時の貴族に公開される事は無く、又、易占(筮占)の占法過程が非効率であった点から次第に衰えて、式占が主となった。陰陽寮における易占(筮占)の扱いは、巷で考えられてるほど重視はされていない。

 ・葛洪(道教・霊宝派)の「抱朴子」内篇・塞難篇には、「抱朴子曰 命之脩短 實由所値 受氣結胎 各有星宿。天道無為 任物自然 無親無疏 無彼無此也。」とある。「抱朴子曰く、命の脩短は實に値ふ所に由る。氣を受け胎を結ぶは、各々星宿に有り。」(「抱朴子曰 命之脩短 實由所値 受氣結胎 各有星宿」) 万物が運行する摂理の中で星々の出会いによって人の運命が定まるものと、ここでは占星術の論理が述べられるが、人の運命が神の支配によるものでは無いとする意味になる。雜應篇では「抱朴子曰く、仰いで天文を觀、俯して地理を察し、風氣を占ひ、籌算を布き、三棋を推し、九宮を歩し、八卦を檢し、飛伏の集まる所を考へ、訞訛を物類に診し、休咎を龜筴に占ふは、皆 下術常伎にして、疲勞して恃み難し。」(「抱朴子曰 仰觀天文 俯察地理 占風氣 布籌算 推三棋 步九宮 檢八卦 考飛伏之所集 診訞訛於物類 占休咎於龜筴 皆下術常伎 疲勞而難恃」)と排撃している。「天道は無為、物に任じて自然にして、親なく疏なく、彼なく此れなし。」(「天道無為 任物自然 無親無疏 無彼無此也」) 道は、全くの無人格的な実在であり、万物の運行は、道に基づき行われる。道は無心にして無為であり、無為的な在り方を自然という。この天道は、一方に親しく、他方に疎である事は無い。彼に篤く、此れに薄いという事も無い。ここで述べられる「天道無為」とは、老子の思想に基づくものであり、「道は自然に法る」(道徳経・第25章)「道は常に無為にして為さざる無し」(道徳経・第37章)とあり、「天の道は親なく、常に善人に与す」(道徳経・第79章)という用い方をしている。

 ・抱朴子の外篇においては、儒家的な視点で政治・社会、文化の問題について論じられ、内篇においては、合理主義と神秘主義が共存して論じられている。儒教的理念では、災害・怪異は為政者の不徳・失政による戒めとして受け止められていた為、政治責任として問われ、祈祷や祭祀等は、儒家思想における為政者の政治責任論の回避する理論としての位置付けがある。この点を踏まえると、外篇と内篇の開きに違和感は覚えない。内篇の中でも、例えば祈祷に関する記述では、一方において主体性の無い神頼みを批判するも、他方で、これとは逆行するかの様に論じられているが、陰陽に対する班固による漢書「芸文志」等の見解を踏まえるならば、統一感が見出だせる。

 ・抱朴子・雜應篇に太上老君(老子)についての描写の記述があり、趣がある。「老君眞形者 思之 姓李名聃 字伯陽。身長九尺 黃色 鳥喙隆鼻 秀眉長五寸 耳長七寸 額有三理 上下徹足有八卦。以神龜為床 金樓玉堂 白銀為階 五色云為衣。重疊之冠 鋒鋋之劍 從黃童百二十人 左有十二青龍 右有二十六白虎 前有二十四朱雀 後有七十二玄武。前道十二窮奇 後從三十六辟邪。雷電在上 晃晃昱昱。此事出於仙經中也。」(老君の眞形なるものは、これを思ふには、姓は李、名は聃、字は伯陽。身の長は九尺、黃色にして鳥喙隆鼻、秀でたる眉長さ五寸、耳の長さ七寸、額に三理あり、上下足に徹するまで八卦あり。神龜を以って床となし、金樓玉堂にして、白銀の階となし、五色の雲を衣となす。重疊の冠、鋒鋋の劍、黃童百二十人を従へ、左に十二の青龍あり、右に二十六の白虎あり、前に二十四の朱雀あり、後に七十二の玄武あり。前道は十二の窮奇、後從は三十六の辟邪。雷電は上に在りて、晃晃昱昱たり。この事は仙經の中に出づ。) 青龍、白虎、朱雀、玄武は多く知られるところだが、文にある「窮奇」については、方相氏に関して知られる後漢書「禮儀志」の追儺儀礼(大儺)で唱えられる文言でも記述がある。「辟邪」については漢書霊帝記」の注に、古人は多くの辟邪の形を刻んで飾りとなすとある。「甲作食𣧑 胇胃食虎 雄伯食魅 騰簡食不祥 攬諸食咎 伯奇食夢 強梁祖明共食磔死寄生 委隨食觀 錯斷食巨 窮奇騰根共食蠱。凡使十二神追悪凶 赫女(汝)驅 拉女(汝)幹 節解女(汝)肉 抽女(汝)肺腸 女(汝)不急去 後者爲糧!」(後漢書「禮儀志」)(「甲作は凶を食え! 胇胃は虎を食え! 雄伯は魅を食え!騰簡は不祥を食え! 攬諸は咎を食え! 伯奇は夢を食え!強梁と祖明は共に磔死と寄生を食え!委隨は観を食え!錯斷は巨を食え! 窮奇と騰根は共に蠱を食え!」凡そ十二神を使いて悪凶を追わん! 汝の躯を赫し、汝の幹節を拉かん!汝の肉を解き、汝の肺腸を抽かん!汝急ぎて去らざれば、後者 糧と為さん!)

 ・抱朴子に記述されている六甲秘祝や禹歩は多く知られるところにある。登涉篇に「禹步而行三祝曰。諾皋大陰將軍獨聞(開)曾孫王甲勿開外人使人見甲者以為束薪不見甲者以為非人」と禹歩に関する記述がある。(禹步して行き、三たび呪して曰え「諾皋。大陰將軍よ。獨り曾孫王甲にのみ開き、外人には開くなかれ。もし人の甲を見るあらば、以て束たる薪となさん。甲を見ざる者は、以て人に非ざるとなさん。) ここで述べられている甲とは禹歩を行い唱える者の事で、登涉篇の記述では山林の中に往く際に身を護る為に用いるとしている。なかなか興味深い。

 ・墨家儒家の仁(家族愛を基本とする仁)は差別愛であると見做し、血縁によらない普遍的・無差別的博愛を論じた事で知られている。自身、或いは身内さえが良ければ、他は切り捨てる不寛容さは今の世でも多く散見できる事だが、墨家が指摘した儒家の差別愛と通ずる部分が多い。墨子の一文には「義を為すは、毀を避け誉に就くに非ず」と言う文言があり「人道に進むのは、非難を避ける為ではなく、名誉を受ける為でもなく、唯々、人間とし当たり前の事をする為である。」としている。確かに、儒家の孟軻は家という家族制社会の基礎単位から体制が崩れると危惧して、墨家を攻撃した事は有名であるが、孟軻が論じた説にも問題があり、当時としては実現が困難な論説(理想論)があった事は、既に他でも指摘されている事である。儒学を学ぶ者にとって、墨子の話は些か抵抗感を感じる方も少なからずおられるだろうが、墨子の論説は儒学に足りない部分を補うという点で善い材料となるだろう。

 

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雑記

天元6年5月26日(983年7月14日。奥書きに歳次己卯とあり天元2年5月26日(979年6月28日)説もある)に安倍晴明占事略决にて「晴明は楓葉の枝が疎かで、核実を老後にあげようと思うけれど、吉凶の道は不可思議で聖跡を将来に遂げる事は難しい」と述懐を遺していた。

Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832)が遺した文書から「真理」との表現を用いた文章を知り得る範囲で抜粋を試みてみたい。

「誤りを認めるは、真理を見出すより遥かに容易である。誤りは表面にあるので片付け易い。真理は深い処に納まっているので、それを探る事は誰にでも出来る事では無い。」「真理と誤りが同一の源泉から発するのは不思議であるが確かである。それ故、誤りをぞんざいにしてはならぬ事が多い。それは同時に真理を傷つけるからである。」「誤りは真理に対して、睡眠が覚醒に対する関係にある。人が謝りから覚めて蘇った様に再び真理に向かうのを私は見た事がある。」「真理に対する愛は、至る処に善いものを見出し、これを尊ぶ事を知る点に現れる。」「真理は吾々の性質に逆らい、誤りは逆らわない。しかも、極めて簡単な理由によってである。即ち、真理は吾々が自身を限られたものとして認識すべき事を要求するに反し、誤りは、吾々が何らかの仕方で限られないものであるかの様に御世辞を言うからである。」「真理は人に属し、誤りは時代に属する。それ故、並外れた人について、次の様に言われる。"時代の幣風が彼の誤ちを引き起こした。しかし彼の精神力が、それを離脱させ、光栄を得させた。"」「若い良い頭脳が、他の人々によって既に認められた真理を認めると、それによって独創性を失うものの様に思うなら、それは凡そ誤りの最も愚劣なものである。」「古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、それをより以上に進める事は、学問において、極めて功多いものである。」「人間が真理の中に住み且つ行為する事を、神が目指していたのだったら、神は世界の作り方を変えねばならなかっただろう。」※Maximen und Reflexionen. 1809- 散文「格言と反省」

・「真理より偉大なものはありません。最小の真理でさえ偉大です。私は近頃、次の様な考えに思い当たりました。たとえ有害な真理でも、有害なのは、ほんの一時であって、やがては常に有用な、しかも大いに有用な他の真理に達するのです。その逆に、有用な誤りは、有用なのは、ほんの一時であって、一層有害な他の誤りに人を釣り込むものですから、有害です。」※1787年6月8日(ローマから) Charlotte von Stein. 1742-1827への手紙(1776年以来、親友にして愛人。1786年以後は冷却)

・「本で読んだ真理も、吾々は後で自身で考え出さなければなりません。頭の鉢の中に種子が一杯入ってますが、それに対して感情が初めて培養土と培養蜂の役をするのです。」※1798年 作家 Jean Paul 1763-1825 (J.P.Fr.Richter)への手紙

・「適切な真理を言うのに2通りの道がある。民衆にはいつも公然と、王公にはいつも秘密に言うものだ。」「誤りは吾々を決して去らない。だが、より高い要求が、努力する精神をたえず真理に静かに引き上げる。」※Vier Jahreszeiten. 1800 詩集「四季」秋の部

・「どんな事が真理とか寓話とか言って、数千巻の本に現れて来ようと、愛が楔の役をしなかったら、それは皆バベルの塔に過ぎない。」※Zahme Xenien. 1812-1832 詩集「温順なクセー二エン」第3集

 

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